彼の眼差が注がれ、その餘白やその端に貼られてある(まるで未知の國の地圖のやうに擴げられる)薄つぺらな紙の上に彼が澤山の書入れをした、この原稿を諸君は何と見るか?」
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* 重態になつてゐたプルウストには「囚はれの女」の原稿を訂正することが出來なかつたので、前に「ソドムとゴモル」の校正を見たガボリイがその仕事を託されてゐた。「囚はれの女」は彼の死後間もなく刊行された。
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          ※[#アステリズム、1−12−94]

 ガボリイは「ソドムとゴモル」の校正をするまではプルウストを殆ど讀まないでゐたことを告白してゐる。
「スワン家の方」の最初の部分をほんの少し讀んで、なんだかそれから晦澁な、ぎごちない印象を受けたままそれを放棄してしまつたのだと云ふ。そしてそれの文章の長過ぎることを彼は讀まない口實にしてゐた。ともかくも彼はプルウストを理解しなかつたのだ。が、心の底ではそれが單なる時の問題にすぎないやうに感じてゐた。
 さう云ふガボリイをプルウストの方へ導いたのは、フロイドだつたのだ。
 そこでガボリイは、フロイドの學説が初めて巴里に這入り込んできたときの話をし出してゐる。フロイドの弟子である、あるポオランドの婦人がやつてきて彼女の小さなサロンで初めてその學説を紹介した。その會にはN・R・Fの作家たちも殆ど全部出席した。しかし或者にはその會の目的は科學ではなかつた。それを氣晴らしだと思つてゐた。だんだん皆は不注意になり、不眞面目になつて行つた。そして最後の會はとうとう馬鹿笑ひの中に終つた。
 その會はそんな不首尾に終つてしまつたが、しかし精神分析に對する興味はガボリイをプルウストの方へ導いて行つた。プルウストは勿論フロイドを知らないだらうし、フロイドも恐らくプルウストを讀んでゐないであらうが……
 その時丁度、ガボリイはN・R・Fの社長から「ソドムとゴモル」の校正を託されたのだ。

          ※[#アステリズム、1−12−94]

「『ソドムとゴモル』の書き出しは私に私の初期のボオドレエル熱を思ひ出させた。」とガボリイは書いてゐる。
「……ボオドレエルの思ひ出が私をプルウストの作品へ導いて行つた。プルウストとボオドレエルの間には多くの類似點があるのだ。プルウストはボオドレエルのやうに、死に先立つところの死苦[#「死に先立つところの死苦」に傍点]をはつきりと知つてゐた。又彼のやうに、少からずカリカチュアの趣味、レスビアンの趣味を有つてゐた。『ボオドレエルに就いて』といふジャック・リヴィエェルに宛てた手紙の中で、彼は『惡の華』が最初は『レスビアン』と題されてゐた事を、そして『惡の華』といふ題はバブウによつて發見されたのであることを喚起させてゐる。又二人とも屡々珍らしい形容詞を搜してくる。ボオドレエルが『秋の歌』の中で「出發のごとくに響く」ところの「神祕な物音」と形容したのは、プルウストが『ソドムとゴモル』の中で一少女の笑ひを「ジェラニウムの香りのやうに、きつくて、肉感的で、挑發的な笑ひ」と形容したのにも比較されよう。二人の間には、もつと他の類似點がある。不意打[#「不意打」に傍点]に關するボオドレエルの理論と、プルウストの作品の中にまるでヴォドヴィルのやうに仕組まれてある多くの不意打[#「不意打」に傍点]の効果と。ボオドレエルの傳説と、プルウストの傳説と。それから惡魔主義がボオドレエルの作品に於けるのは、スノビスムがプルウストの作品に於けるやうなものだ。ともに裝飾であり、缺點だ。……しかしながら、プルウストがボオドレエルの「影響」(この言葉に普通持たされる惡い意味で)を受けたとは言へない。ボオドレエルが彼に與へたものはすべてプルウストは自分の物としてゐる。(バルザックが「創造の錬金術」と名づけたものによつて)……私はペンを手にしたまま、讀んでゐるそのテキストからどうしても離れられなかつた。ときどき章句の美しさや、反省の情熱的興味が私の注意をそらしはしたが、そしてまたハムラン街の彼の部屋(いつも鎧扉の閉まつてゐる)の中で、眞夜中、死の床にならうとしてゐるそのベッドの上に體を折り曲げて、作品を校正したり、書き直したりしてゐるプルウストの幻が目の前にちらついてならなかつたけれども。死にかかつてゐる者によつて完成された、何といふ仕事! 死についての感想を筆記させるために死苦の中から再び身を起したプルウスト、そしてその痛ましい部屋の散らかりやうと云つたら!

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箱だの、壜だの、熱くなつた枕の皺の中に
くしやくしやになつてゐる貴重な手帳だの、
インキの汚點《しみ》のついた机掛の上にちらばつた本だの……
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