になくしみじみと分かつたのだ。
私は突然、獨逸語を勉強し直さうと思つた、ゲエテが原文で讀みたくなつたのだ。キリコが私をゲエテに向はせたのだ。私は、今日[#「今日」に傍点]のすぐれた詩や繪の中で死に瀕してゐるやうに見える靜かな古代的な美しさを、その昨日[#「昨日」に傍点]の生き生きした完全な姿でもつて見直したいのだ。
私はインゼル版の「詩と眞實」などを買つてきた。しかし永いこと獨逸語を讀まない私にはすぐにはそれを讀めさうもなかつた。
※[#アステリズム、1−12−94]
私はしばらくどうしやうもない氣持で日を過してゐたが、或日、ぶらりと神戸へ出かけた。
露西亞人ばかりのゐる、小さなホテルに泊つた。そのホテルのことを私は「旅の繪」といふ小品の中に描いた。
私はトランク一個すら持たず、勿論、本などは一册も持つて行かなかつた。そんなものは讀みたくもなかつたのだ。しかし、最初の夜、慣れないベッドの上になかなか寢つかれず、本がなくて困つたので、翌日私は海岸通りの何とかいふ藥とパイプと洋書を賣つてゐる店でサミュエル・ベケットの「プルウスト」といふ小さな英語の本を見つけて買つてきた。
晝間は町や波止場をぼんやり散歩をして、夜寢るときだけそれを讀んだ。言つてゐることには大して獨創的なところはないが、しかしプルウストの方法をかなりてきぱきと紹介したものなので、ある頁は私に私の嘗つて讀んだことのある數十頁にわたる長い情景を一瞬間に蘇らせ、また他の頁は今度は是非そこを讀んで見たいものだと私に空想させたりしてくれるので、なかなかその夜毎の一二時間の讀書は樂しかつた。
そこに一週間ばかり滯在してゐるうち、私は扁桃腺をやられて、しかたなしに家へ歸つた。ベケットに刺戟された私は寢ながらプルウストの「再び見出された時」を讀みはじめた。
私はもうすでに三十歳になつてゐた。
※[#アステリズム、1−12−94]
「再び見出された時」は漸く私を活氣づけてくれた。
プルウストがそれまで私の内部に奧深く眠つてゐたものを少しづつ呼び醒ましたのだ。すでにコクトオやなんかが私の内部をすつかり耕してしまつたものと思つてゐたのに。私の内部に眠つてゐるものはまだまだうんとあるのだ。その發見が何よりも私を元氣づけた。
私は當分プルウストを讀んでやらう。さうだ、それからゲエテも讀まう。私は自分の跡にどんなジグザグな線が殘るか知らないが、ともかくもこの二つの相異つた精神について行つてやらう。その一方が詩に對する私のやや性急な愛をもつと平靜な愛[#「平靜な愛」に傍点]に變へてくれるだらうならば、また一方は*、私のこれまで殆ど打棄らかしておいた自己の考へへの誠實[#「自己の考へへの誠實」に傍点]を養つてくれるだらう。
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* プルウストのなげやりな混雜した文體は私の簡潔な文體への好みを困らせる。しかしそれはガボリイも言ふやうに、彼の美徳――誠實であること[#「誠實であること」に傍点]の結果であるやうに見える。私は今までのなまじつかな簡潔さよりも、さう云ふ誠實な混亂[#「誠實な混亂」に傍点]を欲しいのだ。
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※[#アステリズム、1−12−94]
私がその秋のはじめに讀んだジョルジュ・ガボリイの「マルセル・プルウストに就いてのエッセイ」は、彼の内部に眠つてゐたものがプルウストによつて呼び醒まされた過程を精しく語つてゐて、面白い。
プルウストの死んだのはある冬の晩(一九二二年十一月八日)だつた。前から彼が重態であることは知つてはゐた。しかし彼の側近ではなかつたので、ガボリイはその翌朝、新聞を讀んではじめてその死を知つたのだつた。新聞にはごく小さな記事しか出てゐなかつた。それにはただ彼が一九一九年度のゴンクウル賞の受賞者だつたと云ふことだけが書かれてゐた。
「それは日曜日だつた。私は、アペリティフの時間になつてもまだブウルヴアルのあるカッフェの中に、プルウストが死んだといふことなぞ知らない人々の間に、坐つてゐた。私はボオドレエルの死を、そしてその死を知つたにちがひない人々のことを夢想した。それから私は再びプルウストの死の上に戻つて行つた。……私のホテルの部屋には、花模樣のある机掛で掩はれたテエブルの上に、『囚はれの女*』の原稿が載つてゐるのだ。……晩、私はそこに歸つて行つた。しかし、どうしても私はそれを讀み續けるやうな氣にはならなかつた。私のことを子供らしいと云ふ奴は云ふがいい。だが、前もつて自分の容態をはつきり知つてゐて、一生の間あんなにも死について考へてゐたその死者のことを思へば、この、タイプライタアで打たれてあるとは云へ、彼の手が觸れ、
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