とくに見え、また他の時はさうでないごとくに見えてゐた、眞の自我《モア》が、彼に齎らされた天の糧を受けて、覺醒し、活氣づいてくる。時間の秩序から飛び出した一分間が私にそれを感じさせるために私を時間の秩序から飛び出した人間に改造したのだつた。」
 このやうにして作品の結論が書き出しのマドレエヌの上に直接に結びつけられてゐるのだ。プルウストは作品を始めたごとくに作品を終へる。ただ、彼はとうとうマドレエヌの神祕の鍵を發見しつつ終へたのだ*。「これらの感覺を幾多の法則及び觀念の表象として説明しなければならないのだ。換言すれば、私の感じたものを薄くらがりから抽き出して、それを何か精神的に同値のものに變へなければならないのだ。ところで、私にとつてその唯一とも見える手段は、藝術的作品を創ること以外に有り得ようか?」
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
* バンジャマン・クレミユはこれらの點からプルウストの作品が古典的なピラミッド式構成[#「ピラミッド式構成」に傍点]持つものであることを主張する。しかしそれに對してそれは構成[#「構成」に傍点]と云ふよりも、寧ろ統一[#「統一」に傍点]と云ふべきだらうと反對してゐる論者もある。
[#ここで字下げ終わり]

          ※[#アステリズム、1−12−94]

 まだ私が説明しないでゐる最後の二つの無意的記憶もやはり、彼がその小さな圖書室の中でかかることを考へめぐらしてゐる間に、彼を襲ふのだ。水管の中で水が軋るやうな音を立てる。夏の夕方に、バルベックの沖合で遊覽船の立てた長い叫びにそつくりなその音響が、さながら自分がバルベックに居るやうな思ひを彼に抱かせる。……彼は書棚のうちにふと一册の本の表題――ジョルジュ・サンドの「フランソワ・ル・シャンピ」を見つける。すると彼は急に、何だか泣きたいやうな感動に襲はれてしまふ。子供の時分、いつも眠る前に、彼の母がその小説を讀んでくれたその折の、低い、子守唄のやうなくらゐにまで甘やかな彼女の聲が、いま彼の耳にまざまざと蘇つたからである。
 音樂がやつと終つたので、彼はその圖書室を去つて、サロンの中へはひつて行く。戰爭が長いこと彼を社交界から離してゐた。彼は其處でいきなり假面舞踏會のやうな印象を受ける。彼は灰色の髮だの、白い髯だの、皺だらけの顏のうちに辛うじて彼の知人等を認める。最初彼がフ
前へ 次へ
全12ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング