ふ。そしてその代りに、彼がバルベックの近くで馬車の上から認めた三本の樹木だとか、マルタンヴィルの鐘塔だとか、茶の中に浸したマドレエヌの味だとかが嘗つて彼に與へたのとそつくりな異樣の悦びが彼を襲ふ。が、何故このやうな悦ばしさが二個のでこぼこした石疊によつて喚び起されたのか? 彼は突然、自分の足の下の凸凹が、ヴェニスのサン・マルコ洗禮堂の二個のでこぼこな石疊の上で感じてゐたあらゆる感覺を生き生きと彼に喚び起させたからであることに氣がつく。だが、何故こんなつまらない感覺の喚起の中にこんなにも異樣な悦びがあるのだらうか? その不可思議に苦しめられながら、彼はゲルマント邸へはひつて行く。
彼は小さな圖書室に導かれる。丁度サロンでは音樂が演奏されてゐる最中なので、それが終るまでそこで待つてゐなければならないのだ。その時その圖書室の隣りの食器室から皿にスプウンのぶつかる音が聞えてくる。するとさつき凸凹な石疊が彼に與へたのと同じやうな悦ばしさが再び彼を襲ふ。それは森のにほひと煙のにほひとの混つた、なんだか熱いやうな感覺である。皿にぶつかつたスプウンの音が、小さな森の手前に汽車が停まつてゐた間その車輪の何かを修繕してゐた工夫のハンマアの音を喚起させたのだ。……給仕長が彼のためにオレンジエェドを持つてくる。彼は渡されたナプキンで口を拭く。すると今度は突然、青空の幻が彼の目の前をよこぎる。彼はまるで今自分がバルベックの海岸に臨んだホテルの窓の前に立つてゐるやうに感ずる。昔その窓を前にして彼が糊の利いたタオルでもつて骨を折りながら自分の體を拭いてゐた時のことが、いま彼が口を拭いてゐたばかりの硬ばつたナプキンによつてありありと思ひ出されたのだ……
さう云ふ經驗を繰り返してゐるうちに、彼は遂に彼の搜し求めてゐた一つの法則を發見するに至る。
「私のうちに再生したもの、……そのものは物體の原素《エッセンス》だけを食つてゐるのだ。そのものはその原素の中にのみ彼の食物、彼の無上の快樂を見出す。……嘗つて聞いたり嗅いだりしたことのある或る音響とか、或る匂ひとかが、再び――現在と過去とに於いて同時に、實在はしなくとも現實的に、抽象的にならずに觀念的に――聞かれたり嗅がれたりするや否や、忽ち物體の永續的なそして平常は隱れてゐるところの原素《エッセンス》が釋放される。そして或る時はずつと前から死んでゐるご
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