子《さんざし》の茂みを認めた。私のまはりには昔のマリアの月[#「マリアの月」に傍点]や、日曜の午後や、すつかり忘れてゐた信頼だの過失だのが一つの雰圍氣になつて漂つた。私はそれをつかまへたいと思つた。私は一瞬間立ち止つてゐた……」
第六の經驗は「心の間歇」と呼ばれてゐる有名な一節だ。彼はその愛してゐた祖母の死後、母に連れられてバルベックのグランド・ホテルへ二度目に行く。(最初の時はその死んだ祖母と二人きりで行つたのだ)「最初の夜、私は心臓が苦しくてしやうがなかつたので、その苦痛をごまかすために、私は靴をぬがうとして注意深くしづかに屈んだ。しかし、私が私の深靴の最初のボタンに手をふれるや否や、私の胸は見知らない神々しいもので一ぱいになつて脹らんだ。鳴咽が私をゆすぶり、涙が私の目から流れた。」
その瞬間に、數年前の、このホテルへ着いた最初の晩、疲れ切つた彼のために靴をぬがせてくれようとして、その上に身を屈めてゐた祖母のやさしい、氣づかはしげな顏が、その腕のなかへ身を投じたいやうな衝動を彼が感じたくらゐ、生き生きと完全に蘇つたのだ。そしてそれと同時に彼は初めてその祖母が死んだといふ事に、死んだのが誰であつたかといふ事に、氣づくのだ。そして彼はその祖母が死んでから一年許りと云ふもの、彼女のことも、彼女に對する自分のこまやかな愛情すらも、すつかり忘却してゐたこと(プルウストはそれを「心の間歇」と呼んでゐる)を認めて驚く。
さて、最後の五つの經驗は「再び見出された時」の第二部のはじめに次から次へと連續的に起る。だからそれ全部でもつて一つの靈感を形づくるものと見て差支へない。其處でプルウストは彼の作品がいかにして生れたかを自ら語つてゐるのだ。
※[#アステリズム、1−12−94]
ゲルマント邸に於けるマチネに招待されて、彼は途すがら、いかに自分には文學的才能が缺けてゐるか、のみならず文學そのものが空虚なものであるかを悲しい氣持で考へながら、其處へ出かけて行く。中庭を横切らうとしたとき彼はあんまりぼんやりしてゐたものだから、向うからくる自動車に氣づかなかつた。運轉手の叫びで、彼は慌てて脇へどく。そして彼は思はず出つぱつてゐた敷石につまづく。が、眞直にならうとして、彼がその足を前のよりもいくらか低くなつた石の上にのせた瞬間、彼の悲しい氣持は突然消えてしま
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