とが、そういう夫人の静かな生活をかき乱すだろうことを恐れたのだった。私の用件というのは、――最近、私の恩師であるA氏の遺作展覧会が催されるので、夫人の所有にかかわるところの氏の晩年の作品の一つを是非とも出品して貰おうがためであった。
 その作品というのは、それが氏の個人展覧会にはじめて発表された時は、私もそれを一度見ることを得たものであるが、それは難解なものの多い晩年の作品の中でもことに難解なものであって、その「窓」というごく簡単な表題にもかかわらず、氏独特の線と色彩とによる異常なメタフォルのために、そこに描かれてある対象のほとんど何物をも見分けることの出来なかった作品であった。しかしそれは、氏のもっとも自ら愛していた作品であって、その晩年私に、自分の絵を理解するための鍵《かぎ》はその中にある、とまで云われたことがあった。だが、何時からかその絵の所有者となっていたO夫人は、何故《なぜ》かそれを深く秘蔵してしまって、その後われわれの再び見る機会を得なかったものであった。そこで、私は今度の氏の遺作展覧会を口実に、それに出品してもらうことの出来ないまでも、せめて一目でもそれを見たいと思って、
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