窓
堀辰雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)迂回《うかい》している
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或る秋の午後、私は、小さな沼がそれを町から完全に隔離している、O夫人の別荘を訪れたのであった。
その別荘に達するには、沼のまわりを迂回《うかい》している一本の小径《こみち》によるほかはないので、その建物が沼に落しているその影とともに、たえず私の目の先にありながら、私はなかなかそれに達することが出来なかった。私が歩きながら何時《いつ》のまにか夢見心地になっていたのは、しかしそのせいばかりではなく、見棄てられたような別荘それ自身の風変りな外見にもよるらしかった。というのは、その灰色の小さな建物は、どこからどこまで一面に蔦《つた》がからんでいて、その繁茂の状態から推すと、この家の窓の鎧扉《よろいど》は最近になって一度も開かれたことがないように見えたからである。私は、そういう家のなかに、数年前からたった一人きりで、不幸な眼疾を養っているといわれる、美しい未亡人のことを、いくぶん浪漫的《ロマンチック》に、想像せずにはいられなかった。
そうして私は、私の突然の訪問と、私の携えてきた用件とが、そういう夫人の静かな生活をかき乱すだろうことを恐れたのだった。私の用件というのは、――最近、私の恩師であるA氏の遺作展覧会が催されるので、夫人の所有にかかわるところの氏の晩年の作品の一つを是非とも出品して貰おうがためであった。
その作品というのは、それが氏の個人展覧会にはじめて発表された時は、私もそれを一度見ることを得たものであるが、それは難解なものの多い晩年の作品の中でもことに難解なものであって、その「窓」というごく簡単な表題にもかかわらず、氏独特の線と色彩とによる異常なメタフォルのために、そこに描かれてある対象のほとんど何物をも見分けることの出来なかった作品であった。しかしそれは、氏のもっとも自ら愛していた作品であって、その晩年私に、自分の絵を理解するための鍵《かぎ》はその中にある、とまで云われたことがあった。だが、何時からかその絵の所有者となっていたO夫人は、何故《なぜ》かそれを深く秘蔵してしまって、その後われわれの再び見る機会を得なかったものであった。そこで、私は今度の氏の遺作展覧会を口実に、それに出品してもらうことの出来ないまでも、せめて一目でもそれを見たいと思って、この別荘への訪問を思い立ったのであったが。……
私は漸くその別荘の前まで来ると、ためらいながら、そのベルを押した。
しかし家の中はしいんとしていた。このベルはあまり使われないので鳴らなくなっているのかしらと思いながら、それをためすかのように、私がもう一度それを押そうとした瞬間、扉は内側から機械仕掛で開かれるように、私の前にしずかに開かれた。
夫人に面会することにすら殆ど絶望していた私は、私の名刺を通じると、思いがけなくも容易にそれを許されたのであった。
私の案内された一室は、他のどの部屋よりも、一そう薄暗かった。
私はその部屋の中に這入《はい》って行きながら、隅の方の椅子から夫人がしずかに立ち上って私に軽く会釈するのを認めた時には、私はあやうく夫人が盲目であるのを忘れようとした位であった。それほど、夫人はこの家の中でなら、何もかも知悉《ちしつ》していて、ほとんどわれわれと同様に振舞えるらしく見えたからである。
夫人は私に椅子の一つをすすめ、それに私の腰を下ろしたのを知ると、ほとんど唐突《とうとつ》と思われるくらい、A氏に関するさまざまな質問を、次ぎから次ぎへと私に発するのだった。
私は勿論《もちろん》、よろこんで自分の知っている限りのことを彼女に答えた。
のみならず、私は夫人に気に入ろうとするのあまり、夫人の質問を待とうとせずに、私だけの知っているA氏の秘密まで、いくつとなく洩《も》らした位であった。たとえば、こういうことまでも私は夫人に話したのである。――私はA氏とともに、第何回かのフランス美術展覧会にセザンヌの絵を見に行ったことがあった。私達はしばらくその絵の前から離れられずにいたが、その時あたりに人気《ひとけ》のないのを見すますと、いきなり氏はその絵に近づいて行って、自分の小指を唇で濡らしながら、それでもってその絵の一部をしきりに擦《こす》っていた。
私が思わずそれから不吉な予感を感じて、そっと近づいて行くと、氏はその緑色になった小指を私に見せながら、「こうでもしなければ、この色はとても盗めないよ。」と低い声でささやいたのであった。……
私はそういう話をしながら、A氏について異常な好奇心を持っているらしいこの夫人が、いつか私にも或る特別な感情を持ち出しているらしいことを見逃《みのが》さなかった。
そのうちに私達の話題は、夫人の所有してい
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