る氏の作品の上に落ちて行った。
私は、さっきから待ちに待っていたこの機会をすばやく捕えるが早いか、私の用件を切り出したのである。
するとそれに対して彼女の答えたことはこうであった。
「あの絵はもうA氏の絵として、世間の人々にお見せすることは出来ないのです。たとえそれをお見せしたところで、誰もそれを本物として取扱ってはくれないでしょう。何故と云いますと、あの絵はもう、それが数年前に持っていたとおりの姿を持っていないからです。」
彼女の云うことは私にはすぐ理解されなかった。私は、ことによるとこの夫人は気の毒なことにすこし気が変になっているのかも知れないと考え出した位であった。
「あなたは数年前のあの絵をよく憶えていらっしゃいますか?」と彼女が云った。
「よく憶えています。」
「それなら、あれを一度お見せさえしたら……」
夫人はしばらく何か躊躇《ちゅうちょ》しているように見えた。やがて彼女は云った。
「……よろしゅうございます。私はそれをあなたにお見せいたします。私はそれを私だけの秘密として置きたかったのですけれど。――私はいま、このように眼を病んでおります。ですから、私がまだこんなに眼の悪くなかった数年前にそれを見た時と、この絵がどんなに変っているかを、私はただ私の心で感じているのに過ぎません。私はそういう自分の感じの正確なことを信じておりますが、あなたにそれをお見せして、一度それをあなたにも確かめていただきとうございます。」
そして夫人は、私を促すように立ち上った。私はうす暗い廊下から廊下へと、私の方がかえって眼が見えないかのように、夫人の跡について行った。
急に夫人は立ち止った。そして私は、夫人と私とがA氏の絵の前に立っていることに気づいた。その絵はどこから来るのか、不思議な、何とも云えず神秘な光線のなかに、その内廊だか、部屋だかわからないような場所の、宙に浮いているように見えた。――というよりも、文字通り、そのうす暗い場所にひらかれている唯一の「窓」であった! そしてそれの帯びているこの世ならぬ光は、その絵自身から発せられているもののようであった。或いはその窓をとおして一つの超自然界から這入ってくる光線のようであった。――と同時に、それはまた、私のかたわらに居る夫人のその絵に対する鋭い感受性が私の心にまで伝播《でんぱ》してくるためのようにも思われた。
その上、私をもっと驚かせたのは、その超自然的な、光線のなかに、数年前私の見た時にはまったく気づかなかったところの、A氏の青白い顔がくっきりと浮び出していることだった。それをいま初めて発見する私の驚きかたというものはなかった。私の心臓ははげしく打った。
けれども私には、数年前のこの絵に、そういうものが描かれてあったとは、どうしても信ずることが出来なかった。
「あっ、A氏の顔が!」と私は思わず叫んだ。
「あなたにもそれがお見えになりますか?」
「ええ、確かに見えます。」
そこの薄明にいつしか慣れてきた私の眼は、その時夫人の顔の上に何ともいえぬ輝かしい色の漂ったのを認めた。
私は再び私の視線をその絵の上に移しながら、この驚くべき変化、一つの奇蹟について考え出した。それがこのように描きかえられたのでないことはこの夫人を信用すればいい。よしまた描きかえられたのにせよ、それはむしろ私達がいま見ているものの上に、更に線や色彩を加えられたものが数年前に私達が展覧会で見たものであって、それが年月の流れによって変色か何かして、その以前の下絵がおのずから現われてきたものと云わなければならない。そういう例は今までにも少なくはない。例えばチントレットの壁画などがそうであった。
――だが、それにしては、この絵の場合は、あまりに、日数が少なすぎる。数年の間にそのような変化が果して起り得るものかどうかは疑わしい。そうだとすると、それは丁度現在のように、夫人の驚くべき共感性によってこの絵の置かれてある唯一の距離、唯一の照明のみが、その他のいかなる距離と照明においても見ることを得ない部分を、私達に見せているのであろうか?
そういうことを考えているうちに、私にふと、A氏はかつてこの夫人を深く愛していたことがあるのではないか、そして夫人もまたそれをひそかに受け容《い》れていたのではないか、という疑いがだんだん萌《きざ》して来た。
それから私は深い感動をもって、私の前のA氏の傑作と、それに見入っているごとく思われるO夫人の病める眼とを、かわるがわる眺めたのである。
底本:「堀辰雄集 新潮日本文学16」新潮社
1969(昭和44)年11月12日発行
1992(平成4)年5月20日16刷
入力:横尾、近藤
校正:松永正敏
2003年12月12日作成
青空文庫作成ファイル:
このフ
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