夫人に思い出されたことを知り、その上そういう夫人からの申し出を聞くと、一そうどぎまぎしながら、何かしきりに自分もポケットの中を探し出した。そうしてやっと一枚の名刺を取り出した。それは九鬼の名刺だった。
「自分の名刺がありませんので……」そう言って、もの怖《お》じた子供のように微笑しながら、彼はその名刺を裏がえし、そこに
   河野扁理
という字を不恰好《ぶかっこう》に書いた。
 それを見ながら、さっきからこの青年と九鬼とは何処がこんなに似ているのだろうと考えていた細木夫人は、やっとその類似点を彼女独特の方法で発見した。
 ――まるで九鬼を裏がえしにしたような青年だ。
 このように、彼等が偶然出会い、そして彼等自身すら思いもよらない速さで相手を互に理解し合ったのは、その見えない媒介者が或は死であったからかも知れないのだ。

    ※[#アステリズム、1−12−94]

 河野扁理には、細木夫人の発見したように、どこかに九鬼を裏がえしにしたという風がある。
 容貌の点から言うと彼にはあまり九鬼に似たところがない。むしろ対蹠的《たいせきてき》と言っていい位なものだ。だが、その対蹠がかえって
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