扁理《こうのへんり》は事実、その夫人の思い出のなかの少年なのだ。
 扁理の方では、勿論、数年前、軽井沢で九鬼と一しょに出会ったその夫人のことを忘れている筈はない。
 その時、彼は十五であった。
 彼はまだ快活で、無邪気な少年だった。
 九鬼が夫人をよほど好きなのではないかしらと思い出したのは、ずっと後のことだ。その当時は、ただ九鬼が夫人を心から尊敬しているらしいのだけが分った。それがいつしか夫人を彼の犯し難い偶像にさせていた。ホテルでは、夫人の部屋は二階にあって、向日葵《ひまわり》の咲いている中庭に面していた。そしてその部屋の中に、ほとんど一日中閉じこもっていた。そこへ一度もはいる機会のなかった彼は、日向葵の下から、よくその部屋を見上げた。それは非常に神聖な、美しい、そして何か非現実なもののように思われた。
 そのホテルの部屋は、その後、彼の夢の中にしばしば現われた。彼は夢の中では飛ぶことができた。そのおかげで、彼はその部屋の中を窓ガラスごしに見ることができた。それは夢毎にかならず装飾を変えていた。或る時はイギリス風に、或る時は巴里風《パリふう》に。
 彼は今年二十になった。同じ夢を抱
前へ 次へ
全35ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング