も非常に遠く感じながら、この見知らない町の中を何の目的もなしに歩いていることが、扁理にはいつか何とも言えず快い休息のように思われ出した。
 ――そのうちに扁理は、強い香りのする、夥《おびただ》しい漂流物に取りかこまれながら、うす暗い海岸に愚かそうに突立っている自分自身を発見した。そうして自分の足もとに散らばっている貝殻や海草や死んだ魚などが、彼に、彼自身の生の乱雑さを思い出させていた。――その漂流物のなかには、一ぴきの小さな犬の死骸が混っていた。そうしてそれが意地のわるい波にときどき白い歯で噛まれたり、裏がえしにされたりするのを、扁理はじっと見入りながら、次第にいきいきと自分の心臓の鼓動するのを感じ出していた……

    ※[#アステリズム、1−12−94]

 扁理の出発後、絹子は病気になった。
 そうして或る日、彼女はとうとう始めて扁理への愛を自白した。彼女は寝台の上で、シイツのように青ざめた顔をしながら、こんなことを繰り返えし繰り返えし考えていた。
 ――何故私はああだったのかしら。何故私はあの人の前で意地のわるい顔ばかりしていたのかしら。それがきっとあの人を苦しめていたのだわ
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