からそれへと様々なことが考えられてならないのだが、彼女はそれから出来るだけ心をそらそうとして、一そう丹念に自分の指を動かしていた。
突然、扁理が言った――
「僕、しばらく旅行して来ようと思います」
「どちらへ?」夫人は葡萄の皿から眼を上げた。
「まだはっきり決めてないんですが……」
「ながくですの?」
「ええ、一年ぐらい……」
夫人はふと、扁理が、例の踊り子と一しょにそんなところへ行くのではないかと疑いながら、
「淋しくはありませんか」と訊《き》いた。
「さあ……」
扁理はいかにも気のない返事をしたきりだった。
絹子はといえば、その間黙ったまま、彼の肖像でも描こうとするかのように、熱心に彼を見つめていた。
そうして彼女の母が、扁理の、梳《くしけず》らない毛髪や不恰好《ぶかっこう》に結んだネクタイや悪い顔色などのなかに、踊り子の感化を見出している間、絹子はその同じものの中に彼女自身のために苦しんでいる青年の痛々しさだけしか見出さなかった。
扁理が帰った後、絹子は自分の部屋にはいるなり、思わず眼をつぶった。さっきあんまり扁理の赤い縞のあるネクタイを見つめ過ぎたので、眼が痛む
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