の場合、少女は自分自身の感情はその計算の中に入れないものだ。そして絹子の場合もそうだった。

    ※[#アステリズム、1−12−94]

 ときどき鳴りもしないのにベルの音を聞いたような気がして自分で玄関に出て行ったり、器械がこわれていてベルが鳴らないのかしらと始終思ったりしながら、絹子はたえず何かを待っていた。
「扁理を待っているのかしら?」ふと彼女はそんなことを考えることもあったが、そんな考えはすぐ彼女の不浸透性の心の表面を滑って行った。
 或る晩、ベルが鳴った。――その訪問者が扁理であることを知っても、絹子は容易に自分の部屋から出て行こうとしなかった。
 やっと彼女が客間にはいって行くと、扁理は、帽子もかぶらずに歩いていたらしく、毛髪をくしゃくしゃにさせながら、青い顔をして、ちらりと彼女の方をにらんだ。それきり彼は彼女の方をふりむきもしなかった。
 細木夫人は、そういう扁理を前にしながら、手にしている葡萄《ぶどう》の皿から、その小さい実を丹念に口の中へ滑り込ましていた。夫人は目の前の扁理のだらしのない様子から、ふと、九鬼の告別式の日に途中で彼に出会った時のことを思い出し、それ
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