ないらしいことに気がつくと、すこし顔を赤らめながら答えた。
「僕、河野です」
その名前を聞いても夫人にはどうしても思い出されないらしいその青年の顔は、しかしその上品な顔立によっていくらか夫人を安心させたらしかった。
「九鬼さんのお宅はもう近くでございますか」と夫人がきいた。
「ええ、すぐそこです」
そう答えながら青年は驚いたように相手をふりむいた。突然、彼女がそこに立ち止まってしまったのだ。
「あの、どこかこのへんに休むところはございませんかしら。なんだかすこし気分が悪いものですから……」
青年はすぐその近くに一つの小さなカッフェを見つけた。――そのなかに彼等がはいって見ると、しかしテエブルは埃《ほこり》のにおいがし、植木鉢は木の葉がすっかり灰色になっていた。それをいまさらのように青年は夫人のために気にするように見えたけれど、夫人の方ではそれをそれほど気にはしていないらしかった。鉢植の木の葉の灰色なのは自分のかなしみのためのように思って居るのかも知れぬと青年は考えた。
青年は夫人の顔色がいくらかよくなったのを見ると、すこし吃りながら言った。
「僕、ちょっとまだ用事がありますので
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