なっているのを見ると、
「あれは誰だろう?」
 そう人々は囁《ささや》き合《あ》った。
 それは細木《さいき》と云う未亡人だった。――それまでのどれより長いように思われた自動車の停止が、その夫人をそういう仮死から蘇《よみがえ》らせたように見えた。するとその夫人は自分の運転手に何か言いながら、ひとりでドアを開けて、車から降りてしまった。丁度そのとき前方の車が動き出したため、彼女の車はそこに自分の持主を置いたまま、再び動き出して行った。
 それと殆ど同時に人々は見たのだった。帽子もかぶらずに毛髪をくしゃくしゃにさせた一人の青年が、群集を押し分けるようにして、そこに漂流物のように浮いたり沈んだりして見えるその夫人に近づいて行きながら、そしていかにも親しげに笑いかけながら、彼女の腕をつかまえたのを――
 その二人がやっとのことで群集の外に出たとき、細木夫人は自分が一人の見知らない青年の腕にほとんど靠《もた》れかかっているのに、はじめて気づいたようだった。彼女はその青年から腕を離すと、何か問いたげな眼ざしを彼の上に投げながら、
「ありがとうございました」
 と言った。青年は、相手が自分を覚えてい
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