それはむしろ九鬼の死んだ時分からと言い直すべきかも知れない。
 それまで絹子はもう十七であるのに、いまだに死んだ父の影響の下に生きることを好んでいた。そして彼女は自分の母のダイアモンド属の美しさを所有しようとはせずに、それを眺め、そしてそれを愛する側にばかりなっていた。
 ところが、九鬼の死によって自分の母があんまり悲しそうにしているのを、最初はただ思いがけなく思っていたに過ぎなかったが、いつかその母の女らしい感情が彼女の中にまだ眠っていた或る層を目ざめさせた。その時から彼女は一つの秘密を持つようになった。しかし、それが何であるかを知ろうとはせずに。――そして、それからというもの、彼女は知《し》らず識《し》らず自分の母の眼を通して物事を見るような傾向に傾いて行きつつあった。
 そして彼女はいつしか自分の母の眼を通して扁理を見つめだした。もっと正確に言うならば、彼の中に、母が見ているように、裏がえしにした九鬼を。
 しかし彼女自身は、そういうすべてを殆ど意識していなかったと言っていい。


 そのうち一度、扁理が彼女の母の留守に訪ねて来たことがある。
 扁理はちょっと困ったような顔をして
前へ 次へ
全35ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング