夫人に思い出されたことを知り、その上そういう夫人からの申し出を聞くと、一そうどぎまぎしながら、何かしきりに自分もポケットの中を探し出した。そうしてやっと一枚の名刺を取り出した。それは九鬼の名刺だった。
「自分の名刺がありませんので……」そう言って、もの怖《お》じた子供のように微笑しながら、彼はその名刺を裏がえし、そこに
河野扁理
という字を不恰好《ぶかっこう》に書いた。
それを見ながら、さっきからこの青年と九鬼とは何処がこんなに似ているのだろうと考えていた細木夫人は、やっとその類似点を彼女独特の方法で発見した。
――まるで九鬼を裏がえしにしたような青年だ。
このように、彼等が偶然出会い、そして彼等自身すら思いもよらない速さで相手を互に理解し合ったのは、その見えない媒介者が或は死であったからかも知れないのだ。
※[#アステリズム、1−12−94]
河野扁理には、細木夫人の発見したように、どこかに九鬼を裏がえしにしたという風がある。
容貌の点から言うと彼にはあまり九鬼に似たところがない。むしろ対蹠的《たいせきてき》と言っていい位なものだ。だが、その対蹠がかえって或る人々には彼等の精神的類似を目立たせるのだ。
九鬼はこの少年を非常に好きだったらしい。それがこの少年をして彼の弱点を速かに理解させたのであろう。九鬼は自分の気弱さを世間に見せまいとしてそれを独特な皮肉でなければ現わすまいとした人だった。九鬼はそれになかば成功したと言っていい。だが、彼自身の心の中に隠すことが出来れば出来るほど、その気弱さは彼にはますます堪え難いものになって行った。扁理はそういう不幸を目の前に見ていた。そして九鬼と同じような気弱さを持っていた扁理は、そこで彼とは反対に、そういう気弱さを出来るだけ自分の表面に持ち出そうとしていた。彼がそれにどれだけ成功するかは、これからの問題だが。――
九鬼の突然の死は、勿論、この青年の心をめちゃくちゃにさせた。しかし、九鬼の不自然な死をも彼には極めて自然に思わせるような残酷な方法で。
九鬼の死後、扁理はその遺族のものから頼まれて彼の蔵書の整理をしだした。
毎日、黴臭《かびくさ》い書庫の中にはいったきり、彼は根気よくその仕事をしていた。この仕事は彼の悲しみに気に入っているようだった。
或る日、彼は一冊の古びた洋書の間に、何
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