扁理《こうのへんり》は事実、その夫人の思い出のなかの少年なのだ。
扁理の方では、勿論、数年前、軽井沢で九鬼と一しょに出会ったその夫人のことを忘れている筈はない。
その時、彼は十五であった。
彼はまだ快活で、無邪気な少年だった。
九鬼が夫人をよほど好きなのではないかしらと思い出したのは、ずっと後のことだ。その当時は、ただ九鬼が夫人を心から尊敬しているらしいのだけが分った。それがいつしか夫人を彼の犯し難い偶像にさせていた。ホテルでは、夫人の部屋は二階にあって、向日葵《ひまわり》の咲いている中庭に面していた。そしてその部屋の中に、ほとんど一日中閉じこもっていた。そこへ一度もはいる機会のなかった彼は、日向葵の下から、よくその部屋を見上げた。それは非常に神聖な、美しい、そして何か非現実なもののように思われた。
そのホテルの部屋は、その後、彼の夢の中にしばしば現われた。彼は夢の中では飛ぶことができた。そのおかげで、彼はその部屋の中を窓ガラスごしに見ることができた。それは夢毎にかならず装飾を変えていた。或る時はイギリス風に、或る時は巴里風《パリふう》に。
彼は今年二十になった。同じ夢を抱いて、前よりはすこし悲しそうに、すこし痩《や》せて。
そしてさっきも、群集の間から、自動車のなかに死んだようになっている夫人をガラスごしに見たときは、彼は自分が歩きながら夢を見ているのではないかと信じたくらいだった……
告別式の混雑によってすっかり死の感情を忘れさせられながら、その式場から帰ってきた扁理は、埃だらけのカッフェのなかに、再びその死の感情を夫人と共に発見した。
彼にはそれらのものが近づき難いように思われた。そこでそれらに近づくために彼は出来るだけ悲しみを装おうとした。だが、自分で気のついているよりずっと深いものだった、彼自身の悲しみがそれを彼にうまくさせなかった。そして愚かそうに、彼はそこに突立っていた。
「どうでしたか?」夫人が彼の方に顔をあげた。
「え、まだ大変な混雑です」彼はどぎまぎしながら答えた。
「では、私、もうあちらへお伺いしないで、このまま帰りますわ……」
そう言いながら夫人は自分の帯の間から小さな名刺を出してそれを彼に渡した。
「すっかりお見それして居りましたの……こんどお閑《ひま》でしたら、宅へもお遊びにいらしって下さいませ」
扁理は、自分が
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