から再びホテルを出た。
そうしてまた、さっき一度歩いたことのある道を歩きながら、あの時から少しも失われていない自分のなかの不可解な感じを、犬のように追いかけて行った。
突然、或る考えが扁理にすべてを理解させ出したように見える。さっきから自分をこうして苦しめているもの、それは死の暗号ではないのか。通行人の顔、ビラ、落書、紙屑《かみくず》のようなもの、それらは死が彼のために記して行った暗号ではないのか。どこへ行ってもこの町にこびりついている死の印《しるし》。――それは彼には同時に九鬼の影であった。そうして彼にはどうしてだか、九鬼が数年前に一度この町へやってきて、今の自分と同じように誰にも知られずに歩きながら、やはり今の自分と同じような苦痛を感じていたような気がされてならないのだ……
そうして扁理はようやく理解し出した、死んだ九鬼が自分の裏側にたえず生きていて、いまだに自分を力強く支配していることを、そしてそれに気づかなかったことが自分の生の乱雑さの原因であったことを。
そうしてこんな風に、すべてのものから遠ざかりながら、そしてただ一つの死を自分の生の裏側にいきいきと、非常に近くしかも非常に遠く感じながら、この見知らない町の中を何の目的もなしに歩いていることが、扁理にはいつか何とも言えず快い休息のように思われ出した。
――そのうちに扁理は、強い香りのする、夥《おびただ》しい漂流物に取りかこまれながら、うす暗い海岸に愚かそうに突立っている自分自身を発見した。そうして自分の足もとに散らばっている貝殻や海草や死んだ魚などが、彼に、彼自身の生の乱雑さを思い出させていた。――その漂流物のなかには、一ぴきの小さな犬の死骸が混っていた。そうしてそれが意地のわるい波にときどき白い歯で噛まれたり、裏がえしにされたりするのを、扁理はじっと見入りながら、次第にいきいきと自分の心臓の鼓動するのを感じ出していた……
※[#アステリズム、1−12−94]
扁理の出発後、絹子は病気になった。
そうして或る日、彼女はとうとう始めて扁理への愛を自白した。彼女は寝台の上で、シイツのように青ざめた顔をしながら、こんなことを繰り返えし繰り返えし考えていた。
――何故私はああだったのかしら。何故私はあの人の前で意地のわるい顔ばかりしていたのかしら。それがきっとあの人を苦しめていたのだわ
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