のだ。するとその閉じた眼の中には、いつまでも赤い縞のようなものがチラチラしていた……

    ※[#アステリズム、1−12−94]

 扁理は出発した。
 都会が遠ざかり、そしてそれが小さくなるのを見れば見るほど、彼には出発前に見てきた一つの顔だけが次第に大きくなって行くように思われた。
 一つの少女の顔。ラファエロの描いた天使のように聖《きよ》らかな顔。実物よりも十倍位の大きさの一つの神秘的な顔。そしていま、それだけがあらゆるものから孤立し、膨大し、そしてその他のすべてのものを彼の目から覆い隠そうとしている……
「おれのほんとうに愛しているのはこの人かしら?」
 扁理は目をつぶった。
「……だが、もうどうでもいいんだ……」
 そんなにまで彼は疲れ、傷つき、絶望していた。
 扁理。――この乱雑の犠牲者には今まで自分の本当の心が少しも見分けられなかったのだ。そして何の考えもなしに自分のほんとうに愛しているものから遠ざかるために、別の女と生きようとし、しかもその女のために、もうどうしていいか分らないくらい、疲れさせられてしまっているのだ。
 そうして彼はいま何処へ到着しようとしているのか?
 何処へ?……
 彼は突然、汽車が一つの停車場に停まると同時に、慌ててそこへ飛び降りてしまった。
 それは何かの薬品の名を思い出させるような名前の、小さな海辺の町であった。
 そしてこの一個のトランクすら持たぬ悲しげな旅行者は、停車場を出ると、すぐその見知らない町の中へ何の目的もなしに足を運んで行った。
 彼はしかし歩いてゆくうちに、ふと変な気がしだした。……通行人の顔、風が気味わるく持ち上げている何かのビラ、何とも言えず不快な感じのする壁の上の落書、電線にひっかかっている紙屑《かみくず》のようなもの、――そういうものが彼になにかしら不吉な思い出を強請するのだ。扁理は或る小さなホテルにはいり、それから見知らない一つの部屋にはいった。あらゆるホテルの部屋に似ている一つの部屋。しかし、それすら彼に何かを思い出させようとし、彼を苦しめ出すのだ。彼は疲れていて非常に眠かった。そして彼はそのすべてを自分の疲れと眠たさのせいにしょうとした。彼はすこし眠った。……目をさますと、もう暗くなっていた。窓から入ってくる、湿っぽい風が扁理に、自分が見知らない町に来ていることを知らせた。彼は起き上り、それ
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