んかと思ったら……」弘はちらっとそっちを見たきり、いそいで目を伏せながら、そうつぶやいた。
「母さんは?」
「中洲のおばさんのところへ行っているんだ。」
 お照という娘は、そのままちょっと格子に手をかけて、どうしようかと言ったように突立っていたが、とうとう中へはいってきた。
「構わずに上ってよ。……勉強のお邪魔にはならなくて?」
「うん……」いいんだか、悪いんだか分らないような返事をしたきりである。
 そんな従弟《いとこ》の方をお照はとりつくしまがなさそうに見ながら、茶の間へは上ったものの、何処《どこ》へ坐ったらいいかと躊躇《ちゅうちょ》しているようだったが、とうとう三畳の長火鉢の、いつもおばさんの坐っている場所へ、そうっと坐った。弘もまた弘で、自分の背後にそういうお照を意識し出してからは、茶ぶ台には向っていても、もう帳面の上に円や線を描くことは中止して、ぼんやりと頬杖《ほおづえ》をしているきりである。しかし、お照の方へは目をやろうとも、声をかけようともしない。この頃|向島《むこうじま》から芸妓《げいぎ》に出るようになったお照がまたときどきこのおばさん(――お照にとっても実の叔母なのだ
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