が、彼女が両親に死にわかれてから一時この家へ養女になっていたので、そのうちに折合が悪くなってこの家を飛び出してしまっている今でも、彼女はこの叔母のことを「母《かあ》さん」と呼んでいるのである。)の家へ遊びにくるようになっているのは知ってもいたし、二三度顔を合わせたこともあるが、さて、こんな風に二人きりで差し向いになって見ると、相手がいかにも芸妓らしくなりすましているだけ、昔のように口を利《き》くのが弘には何となく気まりが悪いのである。しかし、そういうお照に対して、弘の好奇心はかなり烈《はげ》しく動いている。
しばらくの間、二人はちょいと気づまりな沈黙を続けていた。
「母さんは何時頃から出かけて?」
遠慮がちにではあったが、持ち前のすこししゃがれたような声で、お照がやっとそれを破った。
「お午《ひる》頃。」弘は矢張り背中を向けたまま、ぶっきら棒に返事をした。
「もう三時過ぎだから、もう帰ってきそうなもんね?」と半ばひとりごとのように、お照はつぶやいた。そうしてそのまま、又、二人はちょっと黙り合っている。
「あああ……」と弘はとうとう溜《たま》らなくなったように、欠伸《あくび》をわざと
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