る。そんな寂しいくらいの路地のなかに、いつも生気を与えているように見えるのは、彫金師の一家だけである。ずっと奥の、別棟になった細工場からは、数人の職人がいつもこつこつと金物を彫っている仕事の音が絶え間なしに聞えて来るのであった。……
その年の春頃から、その彫金師の、それまでは家人だけの出入り口になっていた、蔦《つた》などのからんだ潜《くぐ》り戸に「古流生花教授」という看板がかかるようになった。その数カ月前から立派な白髯《はくぜん》の老人がいつも大きな花束をかかえて屡※[#二の字点、1−2−22]《しばしば》その家に出はいりしていたが、そんなことを好きな一面のあるこの家の夫婦をおだてて、そこをとうとう自分の出張所にしたのである。それからやがて木曜日ごとに、町内の娘たちが五六人それを習いに来るようになった。そうしてその午後になると、その路地には、いままでに聞いたことのない、花やかな、若い娘たちの笑い声が起るようになった。……
その日だけは、息子《むすこ》の弘は、中学校から帰ってくると、自分の勉強間にしている奥座敷が娘たちに占領されているので、いつもお向うの、おばさんの家へ追いやられてし
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