やなんかがあったり、コスモスなどが折から一ぱい花を咲かせながら茂るがままになっていたので、その井戸に水を汲《く》みに来る女たちのむさくるしい姿はどうにか見ずにすんだが、彼女等が濁った声で喋舌《しゃべ》り合っているのは絶えず聞えてきた。その話し声は気になりだすと、どうもうるさくて仕方がなかったが、それでいて何を話しているのか聞いてやろうとすると、いくら耳を傾けても、はっきり聞きとれないほどの、それは遠さであった。それが私にはなんだか解《わか》りにくい田舎訛《いなかなま》りで喋舌られているかのように思えた。
 或る日、私の父は私に、いつまでこうしていてもしようがないから、私の学校の始まるまで、ひとつ田舎でも旅行して来ようかという相談を持ちかけた。何んでも父の話では、二三の地方のお得意先きに貸し放しになっている所があるから、それを取り立てながら田舎へ旅をして廻ろうと言うのであった。その旅行の計画は私をすっかり有頂天にさせた。それらの見知らない地方、見知らない風景、その行く先き先きで私の出会うかも知れないさまざまな冒険、それらのものが私の心を奪ったのだ。私はまだ、真の人生というものは、そんな遠
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