してその苦痛の度も数層倍|烈《はげ》しいものであることを知って私は愕《おどろ》いたのであった。
 私はその村で、それきりその気ちがいの女を見かけなかった。あのような苦痛を私に与えたその女に再び出会うことはどうも恐ろしいような気がしていたが、一方では又、その時の苦痛くらい生き生きと母の俤《おもかげ》を私のうちに蘇らせたものがないので、私は妙にその気ちがいの女を見たいような気もしていたのだった。……

 私たちのしばらく借りて住んでいた田舎家は、赤茶けた色をした小さな沼を背にしていた。私の父は本所に小さな護謨《ゴム》工場を持っていた。それが今度すっかり焼けてしまったので、その善後策を講ずるために、殆んど毎日のように父は出歩いていたので、私はいつも一人で留守番をしていた。私は僅《わず》かな本を相手に暮らしていた。「猟人日記」が好きになったのも、この時であった。私の部屋の窓からは、いまにも崩《くず》れそうな生墻《いけがき》を透かして、一棟《ひとむね》の貧しげな長屋の裏側と、それに附属した一つの古い井戸とが眺《なが》められた。しかし、井戸端《いどばた》と私の窓との間には、数本、石榴《ざくろ》の木
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