やなんかがあったり、コスモスなどが折から一ぱい花を咲かせながら茂るがままになっていたので、その井戸に水を汲《く》みに来る女たちのむさくるしい姿はどうにか見ずにすんだが、彼女等が濁った声で喋舌《しゃべ》り合っているのは絶えず聞えてきた。その話し声は気になりだすと、どうもうるさくて仕方がなかったが、それでいて何を話しているのか聞いてやろうとすると、いくら耳を傾けても、はっきり聞きとれないほどの、それは遠さであった。それが私にはなんだか解《わか》りにくい田舎訛《いなかなま》りで喋舌られているかのように思えた。
或る日、私の父は私に、いつまでこうしていてもしようがないから、私の学校の始まるまで、ひとつ田舎でも旅行して来ようかという相談を持ちかけた。何んでも父の話では、二三の地方のお得意先きに貸し放しになっている所があるから、それを取り立てながら田舎へ旅をして廻ろうと言うのであった。その旅行の計画は私をすっかり有頂天にさせた。それらの見知らない地方、見知らない風景、その行く先き先きで私の出会うかも知れないさまざまな冒険、それらのものが私の心を奪ったのだ。私はまだ、真の人生というものは、そんな遠い見知らない土地にばかりあるものと思っていた年頃だったから。
が、その旅行の計画は、そのうち急に焼跡にバラックを建てることになり、父はその監督をしなければならなくなったので、中止になった。私の子供らしい夢は根こそぎにされた。そればかりでなしに、それは前よりも一層私の田舎暮らしの惨《みじ》めさを掻《か》き立てるような結果にさえなった。
私の父は、大抵日の暮れる時分に焼跡から帰ってきた。もう薄暗くなり出しているのに、電燈もつけないで、読みさしの本を伏せたまま、私がぼんやり横になっているのを見ると、私の父は気づかわしそうな目つきで私を見下ろしながら、しかしその優しい感情を強《し》いて隠そうとするような、乾《かわ》いた声で私を叱《しか》るのだった。
十月になった。村はますます静かになって行った。そうしてその頃までまだ何処かしらに漂っているように見えた悲劇的な雰囲気がだんだん稀薄《きはく》になればなるほど、その村に於《お》ける私の悲しい存在はますますそのなかで目立って来そうに思えた。そして私自身にとっても、日が経《た》てば経つほど、あべこべに、私の周囲はますます見知らない場所のように思わ
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