が、彼女が両親に死にわかれてから一時この家へ養女になっていたので、そのうちに折合が悪くなってこの家を飛び出してしまっている今でも、彼女はこの叔母のことを「母《かあ》さん」と呼んでいるのである。)の家へ遊びにくるようになっているのは知ってもいたし、二三度顔を合わせたこともあるが、さて、こんな風に二人きりで差し向いになって見ると、相手がいかにも芸妓らしくなりすましているだけ、昔のように口を利《き》くのが弘には何となく気まりが悪いのである。しかし、そういうお照に対して、弘の好奇心はかなり烈《はげ》しく動いている。
しばらくの間、二人はちょいと気づまりな沈黙を続けていた。
「母さんは何時頃から出かけて?」
遠慮がちにではあったが、持ち前のすこししゃがれたような声で、お照がやっとそれを破った。
「お午《ひる》頃。」弘は矢張り背中を向けたまま、ぶっきら棒に返事をした。
「もう三時過ぎだから、もう帰ってきそうなもんね?」と半ばひとりごとのように、お照はつぶやいた。そうしてそのまま、又、二人はちょっと黙り合っている。
「あああ……」と弘はとうとう溜《たま》らなくなったように、欠伸《あくび》をわざと大きくしながら、足を投げ出した。そうしてくるりと横になった。と、その途端に、さっきからちっとも娘たちの騒ぎが聞えて来ないでいることに弘ははじめて気がついた。なんだかひっそりしている。何をしているんだろう、と弘はしばらくお照を忘れて、そっちの方へ気をとられていた。……
「お茶でも淹《い》れましょうか?」膝《ひざ》の上で何やら本を読み出していたお照が、ふいとその本から目を上げて、弘に言った。
「こっちへいらっしゃらない?」
「うん。」
弘はやっと渋々と起き上って、長火鉢のそばへ行った。そしてお照の反対の側にどかりと坐りながら、うしろの障子に背中をもたらせながら、立膝をしたまま、お照の顔をまぶしそうに見つめた。
「そんな風に人の顔を見るものじゃなくってよ。」
「だって、ずいぶん変な顔だもの。」
少年は、精いっぱいの皮肉を言ったつもりでいるらしい。そう言って、さも嘲《あざ》けるように笑っている。事実、顔の浅黒い娘が頸《くび》にだけ真白にお白粉《しろい》をつけているのが変てこだと思っているのである。
「まあ、ご挨拶《あいさつ》ね、……弘ちゃんにはかなわないわ。」
娘は目を伏せたまま、いまま
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