「菜穂子さんは僕に何んにも云って行きませんでしたか?」
「ええ別に何んとも……」夫人は考え深そうな、暗い眼つきで彼の方を見守った。
「あの娘《こ》はあんな人ですから……」少年は何か怺《こら》えるような様子をして、大きく頷《うなず》いて見せ、その儘其処を立ち去って行った。――それがこの楡の家に明の来た最後になった。翌年から、明はもう叔母が死んだために此の村へは来なくなった。……
 これでもう何度目かにその半ば傾いたベンチの上に腰かけた儘、その最後の夏の日のそう云う情景を自分の内によみ返らせながら、永久にこっちを振り向いてくれそうもない少女の事をもう一遍考えかけたとき、明は急に立ち上って、もう此処へは再び来まいと決心した。

 そのうちに春らしい驟雨《しゅうう》が日に一度か二度は必らず通り過ぎるようになった。明は、そんな或日、遠い林の中で、雷鳴さえ伴った物凄い雨に出逢った。
 明は頭からびしょ濡れになって、林の空地に一つの藁葺小屋《わらぶきごや》を見つけると、大急ぎで其処へ飛び込んだ。何かの納屋かと思ったら、中はまっ暗だが、空虚らしかった。小屋の中は思いの外深い。彼は手さぐりで五六段ある梯
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