ぎゅう捺《お》しつけなくては気がすまなくなって来そうだ。そう、おれはもう最初の目的を達したのだから、早く帰った方がいい。……」
明はそう考えると急に立ち上って、菜穂子の寝ている横顔を見ながら、もじもじし出した。しかし、どうしてもすぐ帰るとは云い出せずに、少し咳払いをした。こんどは空咳だった。
「雪はまだなんですね?」明は菜穂子の方を同意を求めるような眼つきで見ながら、露台の方へ出て行った。そして半開きになった扉の傍に立ち止って、寒そうな恰好《かっこう》をして山や森を眺めていたが、暫くしてから彼女の方へ向って云った。「雪があると此の辺はいいんでしょうね。僕はもうこっちは雪かと思っていました。……」
それから彼は漸っと思い切ったように露台に出て行った。そしてその手すりに手をかけて、背なかを丸くした儘、其処からよく見える山や森へ何か熱心に目をやっていた。
「あの人は昔の儘だ。」菜穂子はそう思いながら、いつまでも露台で同じような恰好をして同じところへ目をやっているような明の後姿をじっと見守っていた。昔からその明には、人一倍内気で弱々しげに見える癖に、いざとなるとなかなか剛情になり、自分のし
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