冬空の唯一の汚点となった儘、自らの衰弱のためにもう顫《ふる》えが止まらなくなったように絶えず顫えているのを暫く見上げていた。それから彼女はおもわず深い溜息《ためいき》をつき療養所へ戻って来た。
 十二月になってからは、曇った、底冷えのする日ばかり続いた。この冬になってから、山々が何日も続いて雪雲に蔽《おお》われていることはあっても、山麓《さんろく》にはまだ一度も雪は訪れずにいた。それが気圧を重くるしくし、療養所の患者達の気をめいらせていた。菜穂子ももう散歩に出る元気はなかった。終日、開け放した寒い病室の真ん中の寝台にもぐり込んだ儘、毛布から目だけ出して、顔じゅうに痛いような外気を感じながら、暖炉が愉《たの》しそうに音を立てている何処かの小さな気持ちのいい料理店の匂だとか、其処を出てから町裏の程よく落葉の散らばった並木道をそぞろ歩きする一時《ひととき》の快さなどを心に浮べて、そんななんでもないけれども、いかにも張り合いのある生活がまだ自分にも残されているように考えられたり、又時とすると、自分の前途にはもう何んにも無いような気がしたりした。何一つ期待することもないように思われるのだった。

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