をやり過していた。しかし人を待っているような様子でもなかった。その間、圭介がその不動に近い姿勢を崩したのは、さっき誰かが自分の背後でひどく咳き入っているのに思わずびっくりしてその方をふり向いた時だけだった。それは背の高い、痩《や》せぎすな未知の青年だったが、そんなひどい咳を聞いたのははじめてだった。圭介はそれから自分の妻がよく明け方になるとそれに稍《やや》近い咳き方で咳いていたのを思い出した。それから電車が何台か通り過ぎた後、突然、中央線の長い列車が地響きをさせながら素通りして行った。圭介ははっとしたような顔を上げ、まるで食い入るような眼つきで自分の前を通り過ぎる客車を一台一台見つめた。彼はもし見られたら、その客車内の人達の顔を一人一人見たそうだった。彼等は数時間の後には八ヶ岳の南麓《なんろく》を通過し、彼の妻のいる療養所の赤い屋根を車窓から見ようとおもえば見ることも出来るのだ。……
 黒川圭介は根が単純な男だったので、一度自分の妻がいかにも不為合《ふしあわ》せそうだと思い込んでからは、そうと彼に思い込ませた現在の儘《まま》の別居生活が続いているかぎりは、その考えが容易に彼を立ち去りそ
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