うもなかった。
 彼が山の療養所を訪れてから、一月《ひとつき》の余になって、社の用事などでいろいろと忙しい思いをし、それから何もかも忘れ去るような秋らしい気持ちのいい日が続き出してからも、まるで菜穂子を見舞ったのは、つい此の間の事のように、何もかもが記憶にはっきりとしていた。社での一日の仕事が終り、夕方の混雑の中を疲れ切っておもわず帰宅を急いでいる時など、ふと其処には妻がいない事を考えると、忽《たちま》ちあの雨にとざされた山の療養所であった事から、帰りの汽車の中で襲われた嵐の事から、何から何までが残らず記憶によみ返って来るのだった。菜穂子はいつも、何処かから彼をじっと見守っていた。急にその眼ざしがついそこにちらつき出すような気のする事もあった。彼はときどきはっと思って、電車の中に菜穂子に似た眼つきをした女がいたのかどうかと捜し出したりした。……
 彼は妻には手紙を書いた事が一遍もなかった。そんな事で自分の心が充たされようなどとは、彼のような男は思いもしなかったろう。又、たといそう思ったにしろ、すぐそれが実行できるような性質の男ではなかった。彼は母が菜穂子とときおり文通しているらしいのを
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