十四

 或る夕方、都築明は少し熱があるようなので、事務所を早目に切り上げ、真直に荻窪に帰って来た。大抵事務所の帰りの早い時にはおよう達を見舞って来たりするので、こんなにあかるいうちに荻窪の駅に下りたのは珍らしい事だった。電車から下りて、茜色《あかねいろ》をした細長い雲が色づいた雑木林の上に一面に拡がっている西空へしばらくうっとりと目を上げていたが、彼は急にはげしく咳き込み出した。するとプラットフォームの端に向うむきに佇《たたず》んで何か考え事でもしていたような、背の低い、勤人らしい男がひどくびっくりしたように彼の方をふり向いた。明はそれに気がついたとき何処か見覚えのある人だと思った。が、彼は苦しい咳の発作を抑えるために、その人に見られるが儘になりながら、背をこごめたきりでいた。漸《ようや》くその発作が鎮まると、そのときはもうその人の事を忘れたように階段の方へ歩いて行ったが、それへ足をかけようとした途端、不意といまの人が菜穂子の夫のようだった事を思い出して、急いでふり返って見た。すると、その人は又、夕焼した空と黄ばんだ雑木林とを背景にして、さっきと同じような少し気の鬱《ふさ》いだ様子
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