いって来たのだが知りたくもなさそうだった。
「まあ、あなたでしたの?」菜穂子は漸っとふり返ると、少し窶《やつ》れたせいか、一層大きくなったような眼で彼を見上げた。その眼は一瞬異様に赫《かがや》いた。
圭介はそれを見ると、何かほっとし、思わず胸が一ぱいになった。
「一度来ようとは思っていたんだがね。なかなか忙しくて来られなかった。」
夫がそう云《い》い訣《わけ》がましい事を云うのを聞くと、菜穂子の眼からは今まであった異様な赫きがすうと消えた。彼女は急に暗く陰った眼を夫から離すと、二重になった硝子窓《ガラスまど》の方へそれを向けた。風はその外側の硝子へときどき思い出したように大粒の雨をぶつけていた。
圭介はこんな吹き降りを冒してまで山へ来た自分を妻が別に何んとも思わないらしい事が少し不満だった。が、彼は目の前に彼女を見るまで自分の胸を圧《お》しつぶしていた例の不安を思い出すと、急に気を取り直して云った。
「どうだ。あれからずっと好いんだろう?」圭介はいつも妻に改ってものを云うときの癖で目を外《そ》らせながら云った。
「…………」菜穂子も、そんな夫の癖を知りながら、相手が自分を見ていよ
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