ちで、赭松に手をかけた儘《まま》、夕日を背に浴びた早苗と巡査の姿が遂に見えなくなるまで見送っていた。二人は相変らず自転車を中にして互に近づいたり離れたりしながら歩いていた。

   九

 六月にはいってから、二十分の散歩を許されるようになった菜穂子は、気分のいい日などには、よく山麓《さんろく》の牧場の方まで一人でぶらつきに行った。
 牧場は遥か彼方まで拡がっていた。地平線のあたりには、木立の群れが不規則な間隔を置いては紫色に近い影を落していた。そんな野面の果てには、十数匹の牛と馬が一しょになって、彼処此処と移りながら草を食べていた。菜穂子は、その牧場をぐるりと取り巻いた牧柵《ぼくさく》に沿って歩きながら、最初はとりとめもない考えをそこいらに飛んでいる黄いろい蝶のようにさまよわせていた。そのうちに次第に考えがいつもと同じものになって来るのだった。
「ああ、なぜ私はこんな結婚をしたのだろう?」莱穂子はそう考え出すと、何処でも構わず草の上へ腰を下ろしてしまった。そして彼女はもっと外の生き方はなかったものかと考えた。「なぜあの時あんな風な抜きさしならないような気持になって、まるでそれが唯一の避難所でもあるかのように、こんな結婚の中に逃げ込んだのだろう?」彼女は結婚の式を挙げた当時の事を思い出した。彼女は式場の入口に新夫の圭介と並んで立ちながら、自分達のところへ祝いを述べに来る若い男達に会釈していた。この男達とだって自分は結婚できたのだと思いながら、そしてその故に反って、自分と並んで立っている、自分より背の低い位の夫に、或気安さのようなものを感じていた。「ああ、あの日に私の感じていられたあんな心の安らかさは何処へ行ってしまったのだろう?」
 或日、牧柵を潜《くぐ》り抜けて、かなり遠くまで芝草の上を歩いて行った菜穂子は、牧場の真ん中ほどに、ぽつんと一本、大きな樹が立っているのを認めた。何かその樹の立ち姿のもっている悲劇的な感じが彼女の心を捉えた。丁度牛や馬の群れがずっと野の果ての方で草を食《は》んでいたので、彼女はそちらへ気を配りながら、思い切ってそれに近づけるだけ近づいて行って見た。だんだん近づいて見ると、それは何んと云う木だか知らなかったけれど、幹が二つに分かれて、一方の幹には青い葉が簇《むら》がり出ているのに、他方の幹だけはいかにも苦しみ悶《もだ》えているような枝ぶりを
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