自分の娘としての全てに、そうやってしみじみと別れを告げたかった。何故なら明とこうして逢っている間くらい、自分が娘らしい娘に思われる事はなかったのだ。いくら自分に気むずかしい要求をされても、その相手が明なら、そんな事は彼女の腹を立てさせるどころか、そうされればされる程、自分が反って一層娘らしい娘になって行くような気までしたのだった。……
 何処か遠くの森の中で、木を伐《き》り倒《たお》している音がさっきから聞え出していた。
「何処かで木を伐っているようだね。あれは何だか物悲しい音だなあ。」明は不意に独り言のように云った。
「あの辺の森ももとは残らず牡丹屋の持物でしたが、二三年前にみんな売り払ってしまって……」早苗は何気なくそう云ってしまってから、自分の云い方に若《も》しや彼の気を悪くするような調子がありはしなかったかと思った。
 が、明はなんとも云わずに、唯、さっきから空《くう》を見つめ続けているその眼つきを一瞬切なげに光らせただけだった。彼は此の村で一番由緒あるらしい牡丹屋の地所もそうやって漸次人手に渡って行くより外はないのかと思った。あの気の毒な旧家の人達――足の不自由な主人や、老母や、おようや、その病身の娘など……。
 早苗はその日もとうとう自分の話を持ち出せなかった。日が暮れかかって来たので、明だけを其処に残して、早苗は心残りそうに一人で先に帰って行った。
 明は早苗をいつものように素気なく帰した後、暫くしてから彼女がきょうは何んとなく心残りのような様子をしていたのを思い出すと、急に自分も立ち上って、村道を帰って行く彼女の後姿の見える赭松《あかまつ》の下まで行って見た。
 すると、その夕日に赫《かがや》いた村道を早苗が途中で一しょになったらしい例の自転車を手にした若い巡査と離れたり近づいたりしながら歩いていく姿が、だんだん小さくなりながら、いつまでも見えていた。
「お前はそうやって本来のお前のところへ帰って行こうとしている……」と明はひとり心に思った。「おれは寧《むし》ろ前からそうなる事を希《ねが》ってさえいた。おれは云って見ればお前を失うためにのみお前を求めたようなものだ。いま、お前に去られる事はおれには余りにも切な過ぎる。だが、その切実さこそおれには入用なのだ。……」
 そんな咄嗟《とっさ》の考えがいかにも彼に気に入ったように、明はもう意を決したような面持
前へ 次へ
全94ページ中49ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング