だその病室の前にその白いスウェタアを着た青年が、さすがにもう声に出して泣いてはいなかったけれど、やはり同じように両腕で顔を掩《おお》いながら立ち続けているのを見出した。菜穂子はこんどは我知らず貪《むさぼ》るような眼つきで、その青年の震える肩を見入りながら、その傍を大股にゆっくり通り過ぎた。
菜穂子はその日から、妙に心の重苦しいような日々を送っていた。機会さえあれば看護婦を捉えて、その若い娘の容態を自分でも心から同情しながら根掘り葉掘り聞いたりしていた。しかし、その若い娘がそれから五六日後の或夜中に突然|喀血《かっけつ》して死に、その白いスウェタア姿の青年も彼女の知らぬ間に療養所から姿を消してしまった事を知ったとき、菜穂子は何か自分でも理由の分からずにいた、又、それを決して分かろうとはしなかった重苦しいものからの釈放を感ぜずにはいられなかった。そしてその数日の間彼女を心にもなく苦しめていた胸苦しさは、それきり忘れ去られたように見えた。
八
明は相変らず、氷室《ひむろ》の傍で、早苗と同じようなあいびきを続けていた。
しかし明はますます気むずかしくなって、相手には滅多に口さえ利かせないようになった。明自身も殆ど喋舌《しゃべ》らなかった。そして二人は唯、肩を並べて、空を通り過ぎる小さな雲だの、雑木林の新しい葉の光る具合だのを互に見合っていた。
明はときどき娘の方へ目を注いで、いつまでもじっと見つめている事があった。娘がなんと云う事もなしに笑い出すと、彼は怒ったような顔をして横を向いた。彼は娘が笑うことさえ我慢できなくなっていた。ただ娘が無心そうにしている容子だけしか彼には気に入らないと見える。そう云う彼が娘にもだんだん分かって、しまいには明に自分が見られていると気がついても、それには気がつかないようにしていた。明の癖で、彼女の上へ目を注ぎながら、彼女を通してそのもっと向うにあるものを見つめているような眼つきを肩の上に感じながら……
しかし、そんな明の眼つきがきょうくらい遠くのものを見ている事はなかった。娘は自分の気のせいかとも思った。娘はきょうこそ自分が此の秋にはどうしても嫁いで行かなければならぬ事をそれとなく彼に打ち明けようと思っていた。それを打ち明けて見て、さて相手にどうせよと云うのではない、唯、彼にそんな話を聴いて貰って、思いきり泣いて見たかった。
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