「菜穂子さんは僕に何んにも云って行きませんでしたか?」
「ええ別に何んとも……」夫人は考え深そうな、暗い眼つきで彼の方を見守った。
「あの娘《こ》はあんな人ですから……」少年は何か怺《こら》えるような様子をして、大きく頷《うなず》いて見せ、その儘其処を立ち去って行った。――それがこの楡の家に明の来た最後になった。翌年から、明はもう叔母が死んだために此の村へは来なくなった。……
 これでもう何度目かにその半ば傾いたベンチの上に腰かけた儘、その最後の夏の日のそう云う情景を自分の内によみ返らせながら、永久にこっちを振り向いてくれそうもない少女の事をもう一遍考えかけたとき、明は急に立ち上って、もう此処へは再び来まいと決心した。

 そのうちに春らしい驟雨《しゅうう》が日に一度か二度は必らず通り過ぎるようになった。明は、そんな或日、遠い林の中で、雷鳴さえ伴った物凄い雨に出逢った。
 明は頭からびしょ濡れになって、林の空地に一つの藁葺小屋《わらぶきごや》を見つけると、大急ぎで其処へ飛び込んだ。何かの納屋かと思ったら、中はまっ暗だが、空虚らしかった。小屋の中は思いの外深い。彼は手さぐりで五六段ある梯子《はしご》のようなものを下りて行ったが、底の方の空気が異様に冷え冷えとしているので、思わず身顫《みぶる》いをした。しかし彼をもっと驚かせたのは、その小屋の奥に誰かが彼より先にはいって雨宿りしているらしい気配のした事だった。漸《ようや》く周囲に目の馴れて来た彼は突然の闖入者《ちんにゅうしゃ》の自分のために隅の方へ寄って小さくなっている一人の娘の姿を認めた。
「ひどい雨だな。」彼はそれを認めると、てれ臭そうに独り言をいいながら、娘の方へ背を向けた儘、小屋の外ばかり見上げていた。
 が、雨はいよいよ烈しく降っていた。それは小屋の前の火山灰質の地面を削って其処いらを泥流と化していた。落葉や折れた枝などがそれに押し流されて行くのが見られた。
 半ば毀《こわ》れた藁屋根からは、諸方に雨洩りがしはじめ、明はそれまでの場所に立っていられなくなって、一歩一歩後退して行った。娘との距離がだんだん近づいた。
「ひどい雨ですね。」と明はさっきと同じ文句を今度はもっと上ずった声で娘の方へ向けて云った。
「…………」娘は黙って頷《うなず》いたようだった。
 明はそのとき初めてその娘を間近かに見ながらそれが同じ村
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