の綿屋《わたや》という屋号の家の早苗と云う娘であるのに気づいた。娘の方では先に明に気づいていたらしかった。
 明はそれを知ると、こんな薄暗い小屋の中にその娘と二人きりで黙り合ってなんぞいる方が余っ程気づまりになったので、まだ少し上ずった声で、
「此の小屋は一体何んですか?」と問うて見た。
 娘はしかし何んだかもじもじしているばかりで、なかなか返事をせずにいた。
「普通の納屋でもなさそうだけれど……。」明はもうすっかり目が馴れて来ているので小屋の中を一とあたり見廻した。
 そのとき娘が漸っとかすかな返事をした。
「氷室《ひむろ》です。」
 まだ藁屋根の隙間からはぽたりぽたりと雨垂れが打ち続けていたが、さすがの雨もどうやら漸く上りかけたらしかった。いくぶん外が明るくなって来た。
 明は急に気軽そうに云った。「氷室と云うのはこれですか。……」
 昔、此の地方に鉄道が敷設された当時、村の一部の人達は冬毎に天然氷を採取し、それを貯《たくわ》えて置いて夏になると各地へ輸送していたが、東京の方に大きな製氷会社が出来るようになると次第に誰も手を出す者がなくなり、多くの氷室がその儘諸方に立腐れになった。今でもまだ森の中なんぞだったら何処かに残っているかも知れない。――そんな事を村の人達からもよく聞いていたが明もそれを見るのは初めてだった。
「なんだか今にも潰《つぶ》れて来そうだなあ……。」明はそう云いながら、もう一度ゆっくりと小屋の中を見廻した。いままで雨垂れのしていた藁屋根《わらやね》の隙間から、突然、日の光がいくすじも細長い線を引き出した。不意と娘は村の者らしくない色白な顔をその方へもたげた。彼はそれをぬすみ見て、一瞬美しいと思った。
 明が先になって、二人はその小屋を出た。娘は小さな籠《かご》を手にしていた。林の向うの小川から芹《せり》を摘んで来た帰りなのだった。二人は林を出ると、それからは一ことも物を云い合わずに、後になったり先になったりしながら、桑畑の間を村の方へ帰って行った。

 その日から、そんな氷室《ひむろ》のある林のなかの空地は明の好きな場所になった。彼は午後になると其処へ行って、その毀《こわ》れかかった氷室を前にして草の中に横わりながら、その向うの林を透いて火の山が近か近かと見えるのを飽かずに眺めていた。
 夕方近くになると、芹摘みから戻って来た綿屋の娘が彼の前を
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