られた。暮方になると、近くの林のなかで雉《きじ》がよく啼《な》いた。
 牡丹屋の人達は、少年の頃の明の事も、数年前故人になった彼の叔母の事も忘れずにいて、深切に世話を焼いて呉れた。もう七十を過ぎた老母、足の悪い主人、東京から嫁いだその若い細君、それから出戻りの主人の姉のおよう、――明はそんな人達の事を少年の頃から知るともなしに知っていた。殊にその姉のおようと云うのが若い頃その美しい器量を望まれて、有名な避暑地の隣りの村でも一流のMホテルへ縁づいたものの、どうしても性分から其処がいやでいやで一年位して自分から飛び出して来てしまった話なぞを聞かされていたので、明は何となくそのおように対しては前から一種の関心のようなものを抱いていた。が、そのおように今年十九になる、けれどもう七八年前から脊髄炎《せきずいえん》で床に就ききりになっている、初枝という娘のあった事なぞは此度の滞在ではじめて知ったのだった。……
 そう云う過去のある美貌の女としては、おようは今では余りに何でもない女のような構わない容子をしていた。けれどももう四十に近いのだろうに台所などでまめまめしく立ち働いている彼女の姿には、まだいかにも娘々した動作がその儘《まま》に残っていた。明はこんな山国にはこんな女の人もいるのかと懐しく思った。

 林はまだその枝を透いてあらわに見えている火の山の姿と共に日毎に生気を帯びて来た。
 来てから、もう一週間が過ぎた,明は殆ど村じゅうを見て歩いた。森のなかの、昔住んでいた家の方へも何度も行って見た。既に人手に渡っている筈の亡き叔母の小さな別荘もその隣りの三村家の大きな楡《にれ》の木のある別荘も、ここ数年誰も来ないらしく何処もかも釘づけになっていた。夏の午後などよく其処へ皆で集った楡の木の下には、半ば傾いたベンチがいまにも崩れそうな様子で無数の落葉に埋まっていた。明はその楡の木かげでの最後の夏の日の事をいまだに鮮かに思い出すことが出来た。――その夏の末、隣村のホテルに又来ているとかという噂が前からあった森於菟彦が突然O村に訪ねて来てから数日後、急に菜穂子が誰にも知らさずに東京へ引き上げて行ってしまった。その翌日、明はこの木の下で三村夫人からはじめてその事を聞いた。何かそれが自分のせいだと思い込んだらしい少年は落《お》ち著《つ》かないせかせかした様子で、思い切ったように訊《き》いた。
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