の療養所にいつまでも一人で居るのを何かと云われはすまいかと気づかいでもするように、自分の左の肺からまだラッセルがとれないでいる事なんぞを、いかにも不安そうに説明したりした。
 突き当りの病棟の二階の端近くにある病室にはいると、姑はクレゾオルの匂のする病室の中をちらりと見廻したきりで、長くその中に止まることを怖れるかのように、すぐ露台へ出て行った。露台はうすら寒そうだった。
「まあ、どうして此の人は此処へ来ると、いつもあんなに背中を曲げてばかりいるんだろう?」と菜穂子は露台の手すりに手をかけて向うを向いている姑の背を、何か気に入らないもののように見据えながら、心の中で思っていた。そのうち不意に姑が彼女の方へふり向いた。そして菜穂子が自分の方を空《うつ》けたように見据えているのに気づくと、いかにもわざとらしい笑顔をして見せた。
 それから一時間ばかり立った後、菜穂子はいくら引き留めてもどうしてもすぐ帰ると云う姑を見送りながら、再び玄関まで附いていった。その間も絶えず、何かを怖れでもするようにことさらに曲げているような姑の背中に、何か虚偽的なものをいままでになく強く感じながら……

   十

 黒川圭介は、他人のために苦しむという、多くの者が人生の当初において経験するところのものを、人生半ばにして漸《ようや》く身に覚えたのだった。……
 九月初めの或日、圭介は丸の内の勤め先に商談のために長与と云う遠縁にあたる者の訪問を受けた。種々の商談の末、二人の会話が次第に個人的な話柄の上に落ちて行った時だった。
「君の細君は何処かのサナトリウムにはいっているんだって? その後どうなんだい?」長与は人にものを訊《き》くときの癖で妙に目を瞬《またた》きながら訊いた。
「何、大した事はなさそうだよ。」圭介はそれを軽く受流しながら、それから話を外《そ》らせようとした。菜穂子が胸を患って入院している事は、母がそれを厭《いや》がって誰にも話さないようにしているのに、どうして此の男が知っているのだろうかと訝《いぶか》しかった。
「何でも一番悪い患者達の特別な病棟へはいっているんだそうじゃないか。」
「そんな事はない。それは何かの間違えだ。」
「そうか。そんなら好いが……。そんな事を此の間うちのおふくろが君んちのおふくろから聞いて来たって云ってたぜ。」
 圭介はいつになく顔色を変えた。「うちのおふ
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