くろがそんな事を云う筈はないが……。」
彼はいつまでも妙な気持になりながら、その友人を不機嫌そうに送り出した。
その晩、圭介は母と二人きりの口数の少ない食卓に向っているとき、最初何気なさそうに口をきいた。
「菜穂子が入院している事を長与が知っていましたよ。」
母は何か空惚《そらとぼ》けたような様子をした。「そうかい。そんな事があの人達にどうして知れたんだろうね。」
圭介はそう云う母から不快そうに顔を外らせながら、不意といま自分の傍にいないものが急に気になり出したように、そちらへ顔を向けた。――こういう晩飯のときなど、菜穂子はいつも話の圏外に置きざりにされがちだった。圭介達はしかし彼女には殆ど無頓著《むとんじゃく》のように、昔の知人だの瑣末《さまつ》な日々の経済だのの話に時間を潰《つぶ》していた。そう云うときの菜穂子の何かをじっと怺《こら》えているような、神経の立った俯向《うつむ》き顔を、いま圭介は其処にありありと見出したのだった。そんな事は彼には殆どそれがはじめてだと云ってよかった。……
母は自分の息子の娵《よめ》が胸などを患ってサナトリウムにはいっている事を表向き憚《はばか》って、ちょっと神経衰弱位で転地しているように人前をとりつくろっていた。そしてそれを圭介にも含ませ、一度も妻のところへ見舞に行かせない位にしていた。それ故、一方陰でもって、その母が菜穂子の病気のことを故意と云い触らしていようなどとは、圭介は今まで考えても見なかったのだった。
圭介は菜穂子から母のもとへ度々手紙が来たり、又、母がそれに返事を出しているらしい事は知ってはいた。が、稀《まれ》に母に向って病人の容態を尋ねる位で、いつも簡単な母の答で満足をし、それ以上立ち入ってどう云う手紙をやりとりしているか、全然知ろうとはしなかった。圭介はその日の長与の話から、母がいつも何か自分に隠し立てをしているらしい事に気づくと、突然相手に云いようのない苛立《いらだた》しさを感じ出すと共に、今までの自分の遣り方にも烈《はげ》しく後悔しはじめた。
それから二三日後、圭介は急に明日会社を休んで妻のところへ見舞に行って来ると云い張った。母はそれを聞くと、なんとも云えない苦い顔をした儘《まま》、しかし別にそれには反対もしなかった。
十一
黒川圭介が、事によると自分の妻は重態で死にかけているのかも
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