るガアゼの繃帯に内部から血のにじみ出ているのを認めた。しかし翌日になって見ると、彼の知らない間にそれは新しいガアゼに取換えられてあった。)


 そういう神経質な最初の一夜を例外にすると、そこへ入院してからの彼の病状はずっと順調であった。高原の春先きの気候とともに。
 彼の病室の窓から眺められる南アルプスの山頂には雪が日毎《ひごと》にまばらになって行った。そしてそれらは遂に何かしら地球の歯のようなものを剥《む》き出しながら、彼の窓に向って次第に前進してくるように見えた。病人はそれを飽かずに眺めた。
 だが、或る朝から急に雪が降りだした。そして一日じゅう小止《おや》みなく降っていた。もう四月下旬だというのに何と云うことであろう。そしてそれはその翌日になっても、翌翌日になっても止まなかった。
 そんな或る夜ふけのこと、あたりがあまりに騒騒しくなったのでそれまでうとうとと眠っていた彼は思わず目をさました。眠る前にいくらか小降りになったかと思われた雪はいつしか吹雪《ふぶき》になっていた。その上に突風がそれに加っているらしい。――そんな夜も露台に向いているドアや窓は医師の命令で細目に開けておく習慣だったので、それらの隙間《すきま》からは無数の細かい雪が突風そのものと一しょに吹き込んできて、そこら中に手あたり次第に汚点をつけながら、彼の病室の中をくるくると舞っていた。……彼はそっと眼だけを毛布のそとに出しながら夢心地《ゆめごこち》にそれを見入っていたが、やがてそれらの活溌《かっぱつ》に運動している微粒子の群はただ一様に白色のものばかりでなく、それらのなかには赤だの青だの黄だの紫だのがまじっていて、それらが全体として虹色《にじいろ》になって見えることに気がついた。その瞬間、彼はちょっと軽い眩暈《めまい》を感じはしたが、それでもなおその回転する虹に見入っていると、それがいつしか彼に子供の頃の或る記憶を喚《よ》び起させた。……
 人が子供の彼のために幻燈を映してくれようとしている。彼は闇《やみ》の中をじっと見つめている。レンズがなかなか合わない。その間、たださまざまな色彩の塊《かたま》りがぼんやり白い布の上にさまよっているばかりである。けれども或る期待のために子供は胸を躍《おど》らせている。うっとりするような瞬間が過ぎる。やっとレンズが合い、絵がはっきり見えだす。そこには雪のなかに一人の死んだ支那兵《しなへい》が倒れている。子供はその凄惨《せいさん》な光景に思わず目を掩《おお》ってしまう。……
 その子供のおれを、一瞬間うっとりさせていたのと同じような現実の罠《わな》が今のおれを落し入れようとしているのだろうか? おれは何かに瞞《だま》されているのではないか?――そう思いながら彼はなおも魅せられたようにその虚空に回転する虹に見入っていたが、そのうち突然、何処かでガチャリ! と硝子《ガラス》の破れる音がした。と同時にあちらでもこちらでもそれと同じような物音が起った。ずいぶん沢山の硝子が破れたらしいな……と思う間もなく、彼の耳は彼自身のすぐ身ぢかに起ったらしいそれよりも数倍も大きな音響のために麻痺《まひ》したようになった。それは彼の部屋のなかで起ったものらしかったが、彼はそれを確めようともせずに頭からすっぽりと毛布をかぶってしまった。そして彼は枕もとに用意してあるヴェロナアルを飲もうとしたけれど、このまま何も知らずに眠ってしまうことも恐しかった。それからどのくらい時間がたったか分らなかった。――ただその間も彼はたえず自分の眼底に、さまざまの色の微粒子がちらちらしているのをば感じていたが、そのうち不意にエレヴェタアの下降に伴うような感じで彼の全身がすうとしだすのと同時にそれらの幻覚も一時に消えてしまった。それは明らかに眠りではなかった。それはどこかしら脳貧血に似ていた。
 本当の眠りはただその発作を長びかせるような作用をした。
 彼がそういう一種の仮死から蘇《よみがえ》ったのは翌朝の十時頃だった。もう風はすっかり止《や》んでいたし、露台を四五寸埋めている雪からは水蒸気がさかんに立ちのぼっていた。そのせいばかりでなく、その露台の眺望《ちょうぼう》は、いつも彼のベッドの上から見えるのとは非常に様子が異《ちが》っていた。そしてそれが、彼の病室の窓硝子が跡方もなく破壊されているからばかりでなしに、その露台に通じているドアがその蝶番《ちょうつがい》ごとそっくり剥《は》ぎとられてしまっているためであることに彼は漸っと気がついた。硝子の破れる音は彼もうつつに聞いて知っていたが、あんなに巌畳《がんじょう》だったドアがこんなにまで破壊し尽されたことを昨夜少しも知らずにいたことが彼を気味わるがらせた。
 南アルプスの山頂はまた一面に真白になりながら、いつの間にか彼の窓か
前へ 次へ
全9ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング