者もあまり居ないらしく、そしてその裏側はすぐ一面の雑木林になっていた。彼の病室からはベッドに寝たままで、開け放した窓を丁度よい額縁にして、南アルプスのまだ雪に掩《おお》われているロマンチックな山頂が眺《なが》められた。
彼の病室には南向きの露台が一つついていた。其処《そこ》からならばS湖も見えるかも知れないと思って、そこまで出て行った彼はそれらしい方向には一帯の松林をしか見出《みいだ》さなかった。が、その代りに彼は其処から、下の方の病棟のあちらこちらの露台に裸かの患者たちが日光浴をしている有様を一目に見ることが出来た。みんな樹皮のような色の肌《はだ》をしながら、海岸でのように愉《たの》しそうに腹這《はらば》いになっていた。
彼の想像はそういう人達と同じように日光浴をしている裸かの彼自身の姿を描いた。そして「わが骨はことごとく数うるばかりになりぬ」そんな文句を彼はふとつぶやいた。それはかの老人が彼のために読んでくれた聖書の中の一句だった。いちばん何でもないような文句を覚えていたものと見える。「わが骨はことごとくか……」それはいつの間にか話し相手のない彼の口癖になってしまった。
夕方になると、彼はひどい疲労から小石のように眠りに落ちた。
それから何時間たったのか覚えはなかったけれど、彼が目をさまして便所に行ったのは、だいぶ深夜らしかった。彼は便所から帰って、一種の臭《にお》いのただよっている病院の廊下を、同じような病室を NO.1 から一つずつ丁寧に数えて歩いて来ながら、さて彼の病室である四番目のやつのドアを開けようとして、ひょいと部屋の番号を見たら、それは NO.5 だった。彼は部屋の勘定を間違えたのだと思って、すぐ廊下を引き返した。が、ひとつ手前の部屋に来て見るとそれは NO.3 になっていた。おれは何と寝呆《ねぼ》けているのだろう。自分の部屋の前を何遍も素通りする。そう思ってまた踵《きびす》を返した。が次の部屋まで来て見るとやっぱりさっきの NO.5 であった。まさかお伽噺《とぎばなし》じゃあるまいし、おれが夜中に起きて便所へ行っている間におれの部屋が何処《どこ》かへ消えて無くなってしまっているなんて!……そうは思ったものの、彼はしばらくの間、電燈ばかりこうこうと燿《かがや》いている深夜の廊下のまん中に愚かそうに立ちすくんでいたが、ふと其処にただよっている臭いが過酸化水素の臭いだと気づくが早いか、彼は彼の部屋のドアの外側の把手《とって》には、何故だか知らないけれど、ガアゼの繃帯《ほうたい》が巻いてあったことを突然思い出した。そうして彼は、彼が何遍もその前を往復した NO.5 の部屋のドアの把手がその通りであるのを認めた。おれはこのおれの手でさっきそれを握りながら今までこいつに気がつかなかったとは何事だい!(そこで彼は思いきってそのドアを押し開けた。)やっぱりおれの部屋だ。空《から》っぽのおれがおれを待っている。夕方、おれがそこら中に脱ぎ棄《す》てておいた外套《がいとう》や上衣や襯衣《シャツ》や、それから手袋や靴下のようなものまでが、みんなそれぞれにおれの姿を髣髴《ほうふつ》させている。……
彼はやっとこさ自身のベッドにもぐり込みながら、今しがたの変な錯誤をゆっくりと考え直した。――つまり、病院には NO.4 なんて部屋は始めから無いのだ。4[#「4」に傍点]は不吉にも死[#「死」に傍点]と暗合するから。で、おれの部屋は四番目であるのだけれど、しかも5という番号がつけられている。ただそれきりなのだ。……だが待てよ、その厄介な番号をもった部屋をすっかり持て余してしまったこの病院の建築師は、ひょっとしたら一種の魔法のようなもので、この隣りのおれの部屋にそれをすぽっと嵌《は》めておいたかも知れないぞ。そうしてその二重の部屋(つまりこのおれの部屋だが)、それは夢と現実とをくっつけたように、何処かですこしずつ喰《く》い違いを生じている。そうだ、こんな夜ふけなどあの露台に出てこっそり窓の外からこっちを覗《のぞ》いて見ると、丁度あの重屈折をする方解石のようなものを通して見たかのように、この部屋の中のものがすべて、そしておれ自身までがぼんやり二重になって見えそうな気がする。
そのとき不意に前夜の寝台車の中のごたごたとした光景が彼に思い出された。いつまでも奇妙な半睡状態を続けている自分の身体からすうっと別の自分自身が抜け出して列車の廊下をうろうろと歩いている――そういう前夜の錯覚と、それから今しがたの変な錯誤とが何時《いつ》しかごっちゃになって、なんだかウイリアム・ブレイクの絵の或る複雑な構図と同じような不可解さをもって彼に迫りながら、ますます彼を眠りがたくさせた。
(二三日後の夜、彼は彼の部屋のドアの把手に人間の手みたいに巻いてあ
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