って歩いてゆく彼の方がよほど気が気でなかった。そのうち彼はこりゃ俺《おれ》の方がすこしあやしいぞと思い出した。……彼はどうかした機会に、血を見ると、それが自分のであろうと、他人のであろうと、すぐ脳貧血を起してしまう癖があった。そうして今も今、彼はドロシイの白い脛に薔薇色《ばらいろ》の血が滲み出ているのを見ているうちに、どうやらそいつを起したらしいのである。彼はホテルの玄関の次第に近づいてくるのを、うるさく顔にまつわりつく蜘蛛《くも》の巣のようなものを透して、やっとのことで見分けていた。……
「ブランディ! ブランディ!」
一人の西洋人がそう叫んでいるらしいのを彼はすぐ顔の近くに聞いた。それから彼は、自分がホテルの床板の上にあおむけに倒れながら、誰かに自分の足を宙に持ち上げられているらしいことに気がついた。それと同時に甘ったるいような香水のかおりを彼は臭《か》いだ。彼を介抱してくれているのは西洋人の夫婦らしかった。
「ブランディ!」
彼の足を持ち上げていてくれるその西洋人は、漸《ようや》く意識を回復しだした彼の上にかがみながら、ボオイの持ってきたらしい琥珀色《こはくいろ》のグラスを彼の唇《くちびる》に押しあてた。彼はそれを一息に飲み干した。
「…………?」
彼はその親切な西洋人たちにどんな言葉で感謝を示したらいいのか分らなかったので、ただにっこりと笑って見せた。
その時彼の額へ手をやっていたその細君らしい西洋婦人がひょいとうしろを振り向いたので、その方へやっと頭を持ち上げながら彼も見てみると、ホテルのポオチのところにドロシイとその妹は、丁度ホテルへ遊びにでも来ていたと見える彼女らの友達らしい五六人の少女たちに取りかこまれていた。そうして一種の遊戯かなんぞをしているように、ドロシイの説明を聞こうとしていくつもの金髪を一とところに集めているそれらの少女たちの姿は、まだすこし頭の痺《しび》れている彼には、あたかも葡萄《ぶどう》の房《ふさ》のようにゆらゆらと揺れながら見えた。……
……ここにこうして居ると、そういう数年前の光景の一つ一つが、妙に生き生きと彼の心のなかに蘇《よみがえ》ってくるのは、どういう訣《わけ》かしらと考える度毎に、彼はこの樹蔭《こかげ》に何かしら一種特別な空気のあることに気づかないではなかったけれど、つい面倒くさいので彼はそれをそのままにして
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