う客が帰った跡と見えて、その裏庭に面したフレンチ・ドアに叔母がぼんやり凭りかかっているのを見つけると、
「叔母さん」
と彼はその寝椅子の中から声をかけた。
「ここにこうしていますとね、僕はきっとドロシイのことを思い出すんですよ……どうしてかしら?」
叔母さんはまだぼんやりしている。よほどお疲れになったと見える。
「ドロシイは今年は来ていませんの?」彼はうるさく質問するのである。
「ドロシイさんの家は何でも去年カナダへお帰りになったそうよ」
「そうですか。――おや、おや、僕は年頃のドロシイが見たかったんだがなあ……」
……数年前、彼はそのドロシイの隣りの別荘に一夏を暮したことがあった。やはり叔母と一しょに。――その頃ドロシイはまだ七つか八つ位であった。彼はときどきそのドロシイや彼女の小さな妹たちと一しょになって遊んだ。ドロシイは綺麗《きれい》な女の子で彼女の美しい名前によく似合っていた。日本語も上手だった。しかし彼と話をしているうちに日本語が分らなくなると英語でしゃべった。そうして英語などで人としゃべったことのない彼を一寸《ちょっと》黙らせた。そういう時いつまでも彼が黙っていると、彼女は何だか困ったような真面目《まじめ》な表情で彼を見上げるのであった。彼はそういう表情を美しいと思った。――或《ある》時、彼はドロシイとその小さな妹とを連れて、オルガン岩のほとりへ散歩に行った。その散歩の間、ドロシイは絶えずはしゃいでいたが、その帰途、突然一つの小さな崖《がけ》の上へよじのぼってしまった。それは彼女によじのぼることはどうにか出来ても、そこから下りてくることは危険に思われるほどの急な傾斜だった。どうするだろうと思って見ていると、ドロシイはちょっとその傾斜を見て首をかしげていたが、いきなりそこを駈《か》け下りてきた。あぶない! と彼が叫ぶのと殆《ほとん》ど同時に、彼女は途中で足を滑《すべ》らしながら、彼の足許《あしもと》へもんどり打って落ちてきた。……しかし彼女はすぐ起き上った。見ると彼女の白い脛《はぎ》には泥がつき、何かで傷つけたらしく血が滲《にじ》んでいた。彼女はしかしそれを見ても泣かずにいた。ともかくもすぐそこのホテルまで連れて行って何とかしてやろうと思いながら、その怪我《けが》をした少女とそれからもう歩き疲れているらしいその妹とを二人、両手に引張ってホテルに向
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