る。私は東武電車で浅草に出ようと思って、その踏切のほうに向っていった。その場末の町らしく、低い汚い小家ばかりの立ち並んでいる間を、私はいかにも他郷のものらしい気もちになって歩いているうちに、こんどは一度、私の殆んど覚えていない生父の墓まいりをしてみるのもいいなと思った。何んでもないようにふらっと出かけていって、お墓まいりだけをして、ふらっと帰ってくる。それだけでいい。だが、その私の殆んど覚えていない生父の墓のある寺は一体|何処《どこ》にあるのかしら。(註一)
 なんでも私のごく小さい時分、一度か二度だけ、母にどこか山の手のほうの、遠いお寺に墓まいりに連れられていった記憶がかすかにある。その寺の黒い門だけが妙に自分の記憶の底に残っている。それは或る奥ぶかい路地の突きあたりにあって、大きな樹かなんかがその門の傍《そば》に立っていた。幼い私は母につれられたまま、誰れの墓とも知らずに、一しょにそれを拝《おが》んで帰ってきた。母は別にそのときも私には何も言いきかせなかった。それがその生父の墓だったのではあるまいか。あのときの、いかにも山の手らしい、木立の多い、小ぢんまりとした寺はどこにあったのや
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