のその家に訪れてみると、なにひとつ世帯《しょたい》道具らしいものもなくて、まるであばら家のようななかに、父はしょんぼりと鰥暮《やもめぐ》らしをしていたのだった。……
父は彫金師であった。上条氏で、松吉というのが本名である。その父武次郎は、代々|請地《うけじ》に住んでいて、上野輪王寺宮に仕えていた寺侍であったが、維新後は隠居をし、長男|虎間太郎《こまたろう》を当時江戸派の彫金師として羽ぶりのよかった尾崎|一美《かずよし》に入門せしめた。その人が師一美に数ある弟子のうちからその才を認められて、一人娘を与えられ、その跡をつぐことになった。それが惜しくも業なかばにして病歿した上条|一寿《かずとし》である。それに弟が三人あって、揃《そろ》って一寿の門に入っていたが、兄の死後にはそれぞれ戸を構えて彫刻を業とした。その一番下の弟で、寿則《としのり》といっていたのが、私の父となった人である。
松吉は若いころは家業には身を入れず、仲間のものと遊び歩いてばかりいた。随分いたずらなこともしたらしい。或《ある》夏の深夜、友だちと二人で涼をとろうとして吾妻橋の上から大川に飛び込んだところを、丁度巡回中の巡査
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