|手古摺《てこず》ったらしい。……
「ベル」というのは、その時分、尼寺のそばに住んでいたおじさんのところで飼っていた大きな洋犬の名前で、私はその犬と大の仲好しだった。自分よりもずっと大きなその犬を、小さな私はいつも「お前、かわいいね……」といって撫《な》でてやっていたそうである。そうしてその頃私は犬さえ見れば、どんな大きな犬でもこわがらずに近づいていって、「ベル、ベル」と呼んでいた。
 或る日、私は新しく自分の父になる人につれられて、何か犬の出てくる外国の活動写真を見にいった。私はそれを最後までたいへん面白がって見ていた。そんな事があってから、私はその新しい父のことを「ベルのおじちゃん」というようになってしまっていたのだった。
 が、私は新しい父にもそのうちなついてしまった。そうなると、もうすっかりそれを本当のお父うさんだと思い込んで、その父の死ぬ日まで、そのまま、私は一ぺんもそんな事を疑ったりしたことはなかった。

 その小梅の父が母と一しょになった頃は、それまでの放逸な生活を一掃したばかりのあとで、父はひどく窮迫していたらしい。なんでもおばさんの話によると、母がはじめて向島のはずれ
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