屋をはじめた。が、それも年々思わしくなくなる一方で、もう米次郎には挽回の策のほどこしようもなく、とうとう愛宕下《あたごした》の裏店《うらだな》に退いて、余生を佗《わ》びしく過ごす人になってしまった。
米次郎がその愛宕下の陋居《ろうきょ》で、脳卒中で亡くなったのは、明治二十八九年ごろだった。……
そのとき私の母は二十四五になっていた。死んだ米次郎と玉との間には、長女である私の母をはじめ、四人の女《むすめ》とまだ小さな二人の弟たちがいた。
それから私の生れるまでの、十年ちかい年月を、私の母はそれらの若い妹や小さな弟をかかえて、気の弱い、内気な人だったらしいおばあさんを扶《たす》けながら、どんなにけなげに働いたか、そしてどんなに人に知れぬような苦労をしたか、いま私にはその想像すらも出来ない。私の母を知っていた人達は、母のことを随分しっかりした人で、あんなに負けず嫌いで、勝気な人はなかったと一様に言う。なんでもおじいさんが死んでからまもなく、若い母は夜店などを出して何かをひさいだりしたこともあったという話を、まだ私の小さかったとき母自身の口から何かの折にきいたことのあったのを、私はうっ
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